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       日明一本松塚古墳  市指定史跡

  日明小学校から西側の丘陵、道路下に石室があります。この古墳は、遺骸を納めた玄室と供物を置く副室からなる複室横穴式石室で、6世紀後半に造られたものです。外観は、道路横に墳丘の一部が残っている、推定直径15mの円墳と考えられています。
 また、玄室の奥壁は花崗岩の一枚石からなり、赤色顔料で、一点から四方に10本の放射状の線が描かれており、北九州市内で数少ない装飾古墳です。
 現在、この一基のみ残っていますが昔は、もっと多くの古墳がこの付近にありました。そして、昭和48年に、市の指定文化財に指定されており、実物大に復元された石室内部は、「いのちのたび博物館」に展示されています。

      

   牧山古墳群 

 戸畑区に唯一現存している古墳で、かつてこの牧山には、約30基程ありましたが、開発により消滅しました。どちらも6世紀中頃の円墳で、埋葬施設は単室の横穴式石室です。1号墳の死者を埋葬した部屋である玄室は、1.85mの正方形で床から死者が身につけていた装飾品の丸玉、管玉、ガラス玉や耳環が出土しています。また、玄室の入り口には鉄製の刀、矢鏃、そして墓の入口である羨道には壺や皿等の須恵器が副葬品として納められていました。2号墳は、すでに天井の石は無くなっていましたが、玄室の大きさは、長さ1.8m、幅1.6mで、1号墳と同様、鉄製の刀や須恵器が副葬品として納められていました。

    相坂古墳

 古墳時代末期(500年頃)のもので、俗に百穴と言われるように、山全体が数多くの剥抜式横穴古墳み覆われています。昭和9年の発掘調査により出土した品は、この地方の豪族のものと推定されています。 

    小田山古墳群  市指定史跡

 響灘を見下ろす標高35m〜55mの丘陵斜面に、造られた13基の横穴式石室古墳群で、大  正時代までは50数基あったと言われていますが、周辺の宅地開発によって失われました。現在は、古墳公園として墳丘や散策路など整備されています。また、昭和46年に市の文化財に指定されています。
 
この古墳群は、いずれも円墳で、石室は遺体を納めた玄室(玄室)とそれに通じる羨道(せんどう)からなっており、各古墳とも数回にわたって遺体が埋葬されております。また、出土品としては、須恵器、土師器、碧玉製管玉、金環、ガラス玉等が発見されています。これらのことから、この古墳群は6世紀後半に造られたと考えられています。
また、この古墳群は、響灘を漁業の場所とし、古来海人とした活躍した人々が築いた「響灘海域文化圏」に位置づけられ、この地域には「城ノ崎古墳群」「こうしんのう古墳群」等の古墳群があります。
   

   八王子教会内古墳

 八王寺地区には、この古墳を含めて八基以上の古墳の存在が知られており、板櫃川上流域の古墳群を形成していました。この古墳は、八王寺カトリック教会の中ににあり、形式は横穴式石室で東西2室の石室が同時に造られたものである。時代は、古墳時代の終末期である7世紀中頃から後半代に造られたものと考えられています。
東石室 
 長さ5m×高さ1.1〜1.3m×幅1.1m
西石室 
 長さ2.5m×高さ0.8〜0.7m×幅.9m

   上ん山古墳  市指定史跡

  曽根平野の中央部の洪積台地上に位置し、茶昆志山(ちゃびしやま)古墳とは同じ台地上に連続して造営されており、全長約50メートル、後円部径約30メートル、前方部幅約31メートル、後円部高約7.5メートル、前方部高5.5メートルある前方後円墳である。
 後円部の西側及び南側、前方部南側各裾部は削平を受けているが、墳頂部を主によく原形を保ち、比較的均整ののとれた墳丘形態をしている。
 主体部はまったく不明であり、出土遺物はないが表面採集品に埴輪片があり、墳丘形態と合わせて6世紀前半の築造に比定される。
 同墳は茶昆志山古墳よりは、やや後出のものであるが、曽根平野を中心に権勢を誇った茶昆志山古墳の被葬者と同系列の古墳として重要である。

        
 

   茶毘志山古墳  市指定史跡

 曽根平野の中央部を流れる貫側左岸の洪積台地上にこの古墳は位置し、北東側約40メートルには上ん山(うえんやま)古墳がある。
 全長約54メートル、後円部径約30メートル、前方部幅約44メートル、後円部高約12メートル、前方部高約10メートルで、中規模程度の墳丘である。
墳丘上は三段に築成され、基底部は後円部径より前方部幅が大きく、前方部の先端を広げている。主体部は、採土木工事の際に後円部側で横穴式石室の羨門部にあたる石材が露出したことがあり、古式の横穴式石室の形態であったものと思われる。
出土遺物は未発掘のためほとんどないが、土製模造鏡、円筒埴輪片が採取されており、築造時期は、墳丘形態や円筒埴輪などから5世紀後半から末頃に比定される。
 前方後円墳は、曽根平野に集中する中で、同墳は荒神森古墳に次ぐ市内第2位の規模を誇り、附近には屯倉(とんそう)等を設置し、比較的広い平野を背景にした在地豪族の権勢を担うものである。

     


   御座古墳群                                                    

 弥生ヶ丘団地内の貫中央公園内に、昭和60年に発見された前方後円墳と円墳が保存整備されています。
前方後円墳は、全長約22メートルで前方部と後円部の端に周溝が設けられていました。調査の結果、後円部に木棺と粘土槨の二つの棺が埋葬されていました。また、中国の魏で製作したと考えられている三角縁獣文帯三神三獣鏡の破片が副葬されていました。古墳の築造年代は出土遺物などから4世紀後半から5世紀初頭と考えられています。

    

   両岡様古墳群

 曽根平野の南側、貫川右岸の丘陵上に築かれた前方後円墳(1号墳)と円墳(2号墳)からなる。
 1号墳はすでに後円部の3分の1が削られており、復元規模は全長約27メートル、後円部径約18メートル、前方部先端の幅約14メートル、現高1.5メートル。内部の埋葬施設の構造は発掘調査が行なわれていないため不明で、また、埴輪や葺石なども見つかっていないが、墳丘の形などから古墳時代後期に造られたものと思われる。
 2号墳は1号墳のくびれ部東側に隣接して造られている。墳丘の径約10メートル、高さ約1.7メートル。埋葬施設等内部の構造はわかっていない。

   
        

   荒神森古墳

 周防灘に面した砂丘の上に築かれた古墳で、全長約68メートル、後円部径約41メートル、前方部幅約41メートルあり、市内では最大の規模を誇る前方後円墳である。
 後円部には円筒埴輪の列が二段になって巡っており、前方部にも何段かの円筒埴輪の列が巡っていたと考えられ、これまでに円筒埴輪や家形埴輪などが出土しており、築造時期は墳丘の形態や円筒埴輪などから、6世紀中ごろに比定される。
 また、現存はしないが、近くにトントンの森、カンカンの森と呼ばれる2基の陪冢(ばいちょう)【大きな古墳の近くに近親あるいは従臣を葬った小さな古墳】があったと伝えられている。周堤帯を持つ前方後円墳は、市内には他になく、この古墳に埋葬された人が大きな権力を持ち、大和政権と深く結びついていたと考えられる。

       
                

   宮ノ下古墳

 古墳時代中期の横穴式石室古墳で、この付近には、他に道路工事の際、古墳が発見されていること等から古墳群を構成していたものと思われます。また、大蔵川を挟んだ対岸の谷口にも3基の古墳が発見されています。

   
   石塚山古墳   国指定史跡

  九州最大・最古の定型化した典型的な畿内型前方後円墳である。
古墳の立地は低い尾根上で、当時の海岸線にきわめて近い。前方部は海に向かい、全長約110m。墳丘の後円部径約60mで二段築造。墳頂は径22mが平坦で、そのほぼ中央に長大な縦穴式石室がある。また、墳丘には人頭大の葺石が敷き詰められている。前方部はくびれ部から細長く伸び、先端でやや広がって撥形を呈す。
 後円部の竪穴式石室は1796(寛政8)年に開口し、当時の庄屋銀助の記録には銅鏡10数面・剣・矛・鏃が出土とある。現存する出土品は三角縁神獣鏡7面・素環頭太刀片・銅鏃である。これらは現在、国指定重要文化財に指定されている。
 1987(昭和62)年に後円部が苅田町教育委員会によって学術調査され、この時の出土品は三角縁神獣鏡片・後漢鏡片と勾玉・管玉・刀片・鉄鏃・冑片・鉄斧など、京都椿井大塚山古墳や奈良黒塚古墳の出土品に類似していることが指摘されている。石室は大破してしていたが、幅1.4m×長さ約7m程度の長大なものである。

    
          

    御所山古墳     国指定史跡

 国道10号線の与原バス停近くに位置する大型の前方後円墳で、周溝には現在も水をたたえ、北部九州屈指の規模を誇る。
 古墳の調査は1975年(昭和50年)に苅田町教育委員会によって行われた。
墳長は全長119mを測り、前方部幅82m、後円部径73mで、前方部と後円部のくびれ部両側には造り出しを設けている。
 墳丘は、三段築造で斜面には葺石、埴輪が樹立しており、周囲には周堤・周湟があり、これらを含めて全長は約140mを測って、前方部は北側に向いている。
古墳の主体部は記録によると前方部に向けて入り口を開口する古式の横穴式石室であるが、現在は白庭神社拝殿の下に位置する。
 後円部の石室は、1887(明治20)年に東京大学の坪井正五郎博士によって調査された。その時の記録によると石室の入り口の羨道は狭く、玄室の床面が正方形プランを呈し、石障で屍床分けするという特徴を持っている。
石室は大型で、複数の被葬者が埋葬されていたという。天井は穹状に持ち送り、内面には赤色顔料が塗られている。石室の携帯には筑肥地域の影響を受け、この地域のものとしては古式に属す。
 石室内からは副葬品として四禽四乳鏡・勾玉・管玉・ガラ玉・金銅製雲珠などが出土し、現在宮内庁に保管されている。
 御所山古墳の築造年代は石室の構造・副葬品・埴輪などから5世紀後半代と推測されている。また、古墳築造当時は低丘陵上の海岸線に平行して造られた北部九州最大の級の奥津城である。
 上記のことから、この古墳に埋葬された人物は「日本書紀」、「風土記」に記された縣主・国造クラスであると考えられている。

     

       
    番塚古墳    県指定史跡        

  国道10号線、当時の海岸線近くの低い丘陵地に築造された前方後円墳で、御所山古墳の北方約300mの所に位置する。
 この前方後円墳は昭和30年代の宅地造成等によって著しく削平を受けており、調査によってその規模は全長約50m・後円部径約25m・前方部幅約37mと推測している。
古墳の前方部は南側にあり、古墳の周りには周溝も確認された。墳丘からは円筒埴輪が出土している。
 古墳の石室を中心として、1959(昭和34)年と1991(平成3)年の二度にわたって苅田町教育委員会から委託を受けた九州大学考古学研究室が発掘調査を行った。石室の構造は横穴式石室で、幅約3m×長さ3.5mの長方形プランを呈し、高さ約1.8mを測り、石室内には赤色顔料が塗られている。石室内は木棺の疵痕などから推測して頭位を東に向けて2体の被葬者が埋葬され、石室内からは豊富な副葬品が出土している。
 出土品は神獣歌舞画像鏡や装身具の耳環・ネックレス一式、武器・武具として革綴りの挂甲一式・矛7本・胡録に入った鉄鏃・金メッキの馬具一式の他に、木棺に取り付けられていた蛙型金具他である。
土器としては須恵器の杯・高杯・鳥型の瓦・土師の壺の他に百済系の壺を含む。
 番塚古墳は石室の構造や出土した遺物などから、5世紀末頃の築造で、6世紀初頭に追葬したものと言える。
 出土した大刀からは銀の象嵌で蓮華文・同心円文が確認された。蓮華文は我が国最古のもので、蛙型金具は中国にその源流が認められる蟾蜍信仰の象徴である。
 番塚古墳の被葬者は、その立地や歴史的背景・出土した遺物などから、大和政権の北部九州から更に対朝鮮進出政策にかかわる橋頭堡的役割を果たした人物であろうと推測されている。

         

      

    恩塚古墳    町指定史跡 

 恩塚古墳はJR小波瀬西工大前より徒歩5分の距離にある大原八幡神社裏側の丘陵地に位置する。
 古墳の調査は1983(昭和58)年に苅田町教育委員会とかんだ郷土史研究会が行った。調査の結果、径25m・高さ4.5mを測る大型の円墳で、古墳の主体部は中央部にあって、入口を南東に向けて開口する横穴式石室である。
石室は長さ約6.5mを測る複式構造で、玄室はほぼ正方形プランを呈す。石室の石材は比較的大型の巨石を使用している。出土品は耳環・ガラス玉・管玉などの装身具や馬具片・須恵器が土している。
 古墳の築造年代は出土品や石室構造などから6世紀後半代と推測されている。

    雨窪古墳    町指定史跡

 苅田町と北九州市小倉南区が接する微丘陵上に築造された大型の円墳である。古墳の墳丘は著しく削平を受けている。
主体部は複室構造の横穴式石室で、羨道を含めて長さ約10mを測り、石材は巨石を使用する。築造年代は出土した遺物などから6世紀末頃である。
 本古墳は苅田町北部では最大の円墳で、周囲には小円墳があったと言う。
苅田町の北部から小倉南区にかけて分布する古窯跡群があることから、この古墳の被葬者はこれらの窯跡群を統括した首長墓と推測される。

    綾塚古墳    国指定史跡

 綾塚古墳は、丘陵の縁端部を利用して作られた、高さ約8m、直径約41mの二段築成の大円墳で、周りには幅約4.5mの周濠も残っている。
内部には巨大な花崗岩を叩いて整形した石材を組合わせて構築した全長約21mの複室構造の横穴式石室がある。石材の表面は叩いたり削ったりして平滑に仕上げられている。後室には、巨大な一枚岩の奥壁に接して、長さ約2.7m、高さ約1.3m、幅約1.7mの豊前で唯一の家型石棺があり、埋葬された人物の影響力の大きさをうかがえる。
後室から鎌倉時代の青磁片が出土しているので、おそらくこの時代に盗掘された可能性があり、副葬品は不明である。
綾塚古墳は江戸時代から信仰の対象とされ、正面の入り口に鳥居が立てられている。

 
    橘塚古墳    国指定史跡

 黒田小学校の敷地内にある橘塚古墳は、高さ約7m、1辺約38m、赤色土と黒色土を交互に積んで築造した二段築成の大方墳で、外には約7mから10mの周濠がある。
 内部は、花崗岩の巨石で作られた複室構造の横穴式石室で、石室の大きさは、全長約16m。玄室は、長さ約4m、幅約3m、高さ約4mあり、埋葬された人物の影響力の大きさがうかがえる。
 石室が早くから開口していたため、出土品は発見されていないが、おそらく六世紀後半に造られたと思われる。
 橘塚古墳は、黒田小学校の歴史教育の題材に使われるなど、地元に溶けこんだ古墳である。

    光正寺古墳   国指定史跡

 光正寺古墳は宇美町と志免町の境で、標高40mから50mの東西方向にのびる丘陵上に築かれた前方後円墳である。規模は、全長約54m、後円部径約34m、前方部幅約21m、後円部の高さ8mに対し前方部の高さは5mである。
この古墳の後円部には、箱式石棺3基、木棺(もっかん)1基、土器棺1基、という5つの棺が納められている。
後円部中央の一番はじめに埋葬された第1主体部は、大型の箱式石棺で、川原石で囲まれている。石棺には、能古島産と思われる玄武岩や若杉山産の滑石など、遠方より運ばれてきた石材が用いられている。第2主体部は小型の箱式石棺で、地元の石材が用いられている。第3主体部は木棺で、棺の腐食によって陥没した溝と、土師器椀が確認されている。第4主体部は土器棺で、この時期の土器棺としては福岡県で最大級のものである。第5主体部は箱式石棺で、第1主体部の西側に、他4基とは方向を約90度違えて造られていることから、最後に造られたものと考えられる。各箱式石棺には赤色顔料のベンガラが塗布されていた。
光正寺古墳は、糟屋郡内で最大規模の前方後円墳であり、築造年代が「魏志倭人伝」の記された時代に近いことから不彌国(ふみこく)王の墓とも考えられている

   七夕池古墳    国指定史跡

 昭和48年に宅地造成中に発見された七夕池古墳は、高さ3m、直径35.8m、周溝は幅3.5mの円墳である。墳丘は塊石を三段に葺いており、最下段の葺石列は地山を利用し周溝の内側を兼ね、上段と下段の葺石列は盛土で覆っている。
 円墳中央に竪穴式石室をもうけ、石室は葺石として使われたものと同じ川原石を小口積みに構築され、内部に、長さ173cm、幅40cm、深さ42cmの組合せ式木棺が安置されていた。その中には40歳から50歳代の女性の骨が埋葬されていた。
 女性は櫛をさしており、琴柱形石製品(ことじがたせきせいひん)、内行花文鏡(ないこうかもんきょう)、蕨手刀子(わらびてとうす)や、多数の玉類、剣などが木棺内に副葬されていた。また棺外から鉄器、勾玉、土師器(はじき)などが出土した。
 これらの特徴から4世紀末から5世紀初頭に造られた古墳と考えられる。

 

 




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