ふわりと揺れて、風がきた。 無造作に下げたレースのカーテンは、淡い菜の花色だ。 朝、目覚めると家中の窓を開けるのが、岡田朝子の習慣になっている。五月の朝にしては強すぎる陽射しに戸惑った。 居間のテーブルの上にはビールの缶やワインのビン、食べ残しのつまみが散乱している。小さな居間に置くには邪魔なくらい大きなテーブルだ。 昨日、いつもの仲間が来て夜中まで騒いでいた。朝方まで飲んで酔いつぶれた男二人が、奥の部屋で軽い寝息を立てている。 ―― こんなところ、誠には見せられないな。 わずかな後ろめたさに首をすくめた。 夫の誠は、シニアボランティアに応募して去年の春、ブータンに行った。夫のいない生活が一年を過ぎた。 もともとシニアボランティアを希望していたのは朝子だった。資料を取り寄せ、説明会に行って準備を進めていた。朝子には持病があって薬が欠かせない。治療中の人は困難であるらしい。それもあるのだが、ボランティアの条件はかなり厳しい。そのハードルの高さにあきらめざるを得なかった。 「朝子が行かないなら、おれ、行ってくるわ」 興味などまったくない素振りだった誠は手続きをし、研修を受けると勝手に行ってしまった。大切なものを横取りされたようで、素直に送り出せなかった。 誠は、定年まで二年を残して退職した。 「会社、辞めるって、簡単に言わないでよ」 朝子は、ほとんど相談もせず退職した誠に腹が立った。ボランティアは二年の契約だ。
朝子のマイホームは、緑ヶ丘の小高い丘の中腹にある。雄阿寒岳や雌阿寒岳に斜里岳、よく晴れた日には羅臼岳まで見えるのが気に入って土地を購入し、家を建てた。建てて一五年になるが、まだ住宅ローンが残っている。 朝子は週五日、午前九時から午後三時まで障害者施設で働いている。誠はこの三月、ブータンへ行った。誠がいなくなって仕事は辞めようかとも思ったが、続けていた。夫がいないと、一日がすべて自分の自由な時間になる。弁当を作ることもなく、帰りを待たなくても良い。夫のためにたくさんの時間を費やしていたのだと思った。 ―― まったくもう、勝手なんだから。いっそ帰ってこなきゃいいんだわ。 夫がいなくなると、腹の虫がどんどん成長してきた。うきうきするはずの春なのに、ため息ばかり出る。どうしようもない感情をもてあましていた。 「朝子、ご主人、海外に行ったんだって?」 慶子から電話がきた。 「そうなのよ。仕事辞めてまで、行きたかったのかしらねえ……」 「智子と遊びに行ってもいい?」 「来て、来て。愚痴、聞いてちょうだい」 翌日、慶子と智子がやって来た。夫がいなくなった朝子の家は、友人のたまり場になった。 「誠さんって、そんな行動力のある人だった?」 「ぜーえんぜん。」 「突然会社やめたりして、仕事のことでなにかあったの?」 慶子と智子は、矢継ぎ早に質問を浴びせる。 誠はインフラ整備の会社に勤め、部下を三〇人ほど持っていた。 「なにも話は聞いていないし、わたしのすることにも関心のない人だったから、驚いているの」 「ボランティアに逃げた、とか……」 「へえー。考えてもみなかったなあ」 朝子の脳裏を不安がよぎったが、腹の虫が治まっていなかったのでそれ以上考えられない。 誠の心の傷が深いところでジクジク膿んでいることに、朝子は気づいていない。
朝子の住む町は盆地になっていて、周囲は山で囲まれている。朝子が生まれた南ヶ丘は、緑ヶ丘と同じくらいの高さで、ちょうど向かい合わせになっている。 その南ヶ丘には朝子の育った家が、いまは住む人もなく少し傾いて残っている。一三年前に父が、七年前に母が他界した。人が住まなくなった家はどんどん朽ちていく。 結婚してから朝子は、父と母のところへ月に二、三度行っていた。高齢になり、体力が衰えてからは頻繁に通ったが、それは義務感からだった。もっとやさしく心をこめて看てあげようと思うこともあったが、朝子たちの親子関係は非常に淡白だった。両親が亡くなると、寂しさよりも看取った安堵感のほうが強く、家のことなど気にもとめなかった。 エゾハルゼミが鳴く季節がやって来た。朝子は子どものころから、初夏の訪れを告げるこのセミの声が大好きだった。ふと、南ヶ丘の家に行ってみようと思った。 市道から家までの道は、雑草で覆われていた。車を道路わきに止め、持ってきた鎌で、腰まである草を刈りながら汗だくになり、やっと家にたどり着いた。 帽子と軍手と長靴、首にはタオルを巻き、完全防備をして入り口の戸を開けた。なにが出てくるかと、心臓が高鳴る。ひとりで来たことを後悔した。恐る恐る中に入ると案外きれいで、七年の歳月が経ったとは思えなかった。 「ここで、暮らしてみようかな」 あんなに嫌いだったこの家に戻ってみようと、セミの声を聞きながら、朝子は思った。
誠がいないあいだ、自分の匂いがどこかに残っている実家に住むことにした朝子は、準備を始めた。 六月に入って最初の日曜日、慶子をはじめ五人の仲間が手伝いに来てくれた。 「この戸、簡単に壊せるよな。泥棒、入るかもなあ」 「こんな隙間あったら、蛇やねずみも入ってくるしょ」 農業を息子夫婦にまかせ、気楽に暮らす敏と謙一が、にわか大工になって、あちこち直してくれる。 家の周りの雑草は、草刈機であっという間に刈り取られた。スコップでおこせば小さな花壇や、食べる野菜くらいは作れそうだ。 家の中は、センスの良さにかけて、自他共に認める智子が中心になり、慶子や朝子が持ってきた小物を飾っていく。必要最小限にとどめたので、小さな居間だが広々としていた。 居間の少し大きな窓に、智子が作ったレースのカーテンを下げた。家具店で買ったレース地に、智子が編んだ蝶のモチーフが付けられている。智子の家に掛けられていたカーテンだ。朝子が気に入っていたのを覚えていて、プレゼントしてくれたのだった。 朝子の大好きな菜の花色のカーテンは、さみしい居間を明るくした。 煤けてしみのある板壁に、カレンダーを貼った。田園風景や動物、外国の街並など、なかなか趣があって楽しい。子どものころに使っていた蚊帳を壁に下げると、素敵な空間が出来た。手染めの大きなスカーフをタペストリーにして飾ってみる。四時と八時の文字の辺りに、穴の開いたぜんまい仕掛けの柱時計を、昔かかっていた場所にかけた。今はもう動かない。 智子はまるで、自分の部屋を作っているように生き生きと輝いていた。 昼食を終えると出かけて行った輝(ひかる)が、小型トラックに乗り換えてやって来た。 「ちょっと、手伝ってくれない」 車から降りて手招きをする。敏と謙一が出て行き、大きなテーブルとソファーが運び込まれた。 「随分大きなテーブルね」 大きすぎると朝子は思った。 「ちょっと邪魔じゃない?」 「いや、これくらいがいいんだよ」 輝は居間の真ん中に置いた。 「わたし、ひとりなんだけど……」 「いいんだ、いいんだ」 朝子は、できるだけ昔のような生活をしたいと思っていた。親切なのかお節介なのか。しかし、輝の好意を無にするわけにはいかないと、素直に喜んだ。 このテーブルが、輝にとって、とても大切なものだとは想像もしなかった 人が住める家らしくなったころ、六月の太陽は山の稜線に隠れようとしていた。 「よし、おれたちのおんぼろ別荘の出来上がりだ」 男三人が顔を見合わせて笑った。 「いま、なんて言ったの?」 「おれたちの、別荘」 「冗談でしょう?」 女三人は、あきれて顔を見合わせた。 「時々、ここに来て遊ぼうや」 三人は、少年の顔で笑う。 ―― まっ、いいっか。 それもいいかと、朝子は思った。
朝子は仕事の都合もあり、週末だけ南ヶ丘の家に行くことに決めた。 この一週間、朝子は自分の背丈ほどもある板に字を彫っていた。「風花(かざはな)」の文字が浮き上がり、なかなか良い出来栄えである。「別荘」とした家に立てかけようと思いついたのだった。 土曜の午後、看板を持って出かけた。四月に逆戻りしたかのように寒い。オホーツク海を覆う高気圧の勢力が強いと、晴れていても気温が低い。 急勾配の坂道を上り、ルピナスやマーガレットが咲く「別荘」へ向かった。三週間前には雑草で覆われていたのに、人の手を入れることで、驚くほどきれいになった。 母は花が好きで、庭は季節の花であふれていた。母がいなくなっても、ルピナスとマーガレットは生き続けていたようだ。 家に着いて、また驚いた。雑草の根が残って荒れ果てた土地だったのに、生き生きとした黒い土に変わっていたのだ。パンジーやマリーゴールド、ペチニアが植えられ、いく筋も畝が延びている。 ほどなくして敏が軽トラックでやって来た。 「どうだい。見違えたしょ」 「こんなにきれいにしてくれて、ありがとう。大変だったでしょう」 「いやあ、トラクターでやったから、おれは大変じゃないさ」 トラクターをここまで運んでくるのでさえ大変なのに、こともなげに敏は言った。 土の盛り上がりは、思っていたとおりジャガイモだった。 「植える時期はちょっと遅いけど、秋までには食べられるようになるから」 朝子は薄紫色のジャガイモの花がとても好きだ。色も香りも気持ちをやさしくしてくれる。食べるのはもっと好きだ。 「今日は、トマトとナスの苗を持ってきたよ」 敏は堆肥を混ぜながら、手際よく植えていく。さすがプロと朝子は手伝いもせず、敏の手元を眺めていた。 「ふうか、か。いい名前つけたんでしょ」 「ふうか、じゃないよ。かざはな、って読むの」 敏は車から金槌と釘を持ってきて、玄関の脇に打ちつけた。 「なかなか味があるねえ。別荘風になってきたんでない」 敏は腕組みして満足げに見ている。 「今日は寒いから、家に帰るわ」 「そうかあ。ストーブがないと暮らせないか」 帰ろうとしていたら、輝がやって来た。 「やあ、いて良かった。蒲団、持ってきたんだ」 いつでも泊まれるように準備をしておくのだと言う。 「こうなったら、鍵、みんなの分を作らなきゃね」 「そうしてもらえるとありがたい」 朝子より敏や輝のほうが楽しんでいるように思える。 ―― まっ、いいっか。 流れにまかせようと朝子は思った。
次の日も寒かった。「別荘・風花」に行こうか迷っていると、電話が鳴った。 「これからストーブをつけに行こうと思っているんだけど、行かないかい?」 謙一からだった。 昔使っていたという薪ストーブは、手入れが行き届いていてすぐに使えた。煙突を集合煙突にはめ込み、持ってきた薪に火をつけた。 「いいねえ。もう何十年も見てない」 マッチの匂い、新聞紙とガンビ(樺の樹皮)の燃える匂い、懐かしくて涙が出そうになった。貧しかった子どものころを思い出して、鼻の奥がツンとした。 「朝子、電話しても出ないから、ここかと思って、来たよ」 慶子と智子が一緒にやって来た。 「玄関の、風花って、いいねえ」 慶子は手彫りの看板を気に入ってくれた。 「風花って、初冬の晴れた日に、雪がちらちら降ることをいうのよね」 気になっていたことを、智子も感じたようだ。 「季節が冬で気になるけど、語感がいいでしょう」 なんだかわかると、慶子と智子がうなずいた。 二人は居間の隅に置かれたストーブに目をとめた。 薪の温もりに包まれて昔話が始まった。「貧しかった」のはみな同じで、悲しいことでも辛いことでもなかった。それはどん底の貧しさではなかったからなのだろう。慶子が持ってきた弁当を食べながら、話は尽きない。 薪が燃えて灰になったころ、敏と輝が次々とやって来た。敏が謙一に、ストーブの話をしてくれたのだった。同じ時代を生きてきた者同士の、やすらぎがそこにあった。 家族や職場のつながりとも違う朝子たちの「別荘・風花」に、ひとつの協同体がうまれ、彼らの棲家になった。
小鳥の声で目が覚めた。雛が巣立つこの時期、森はにぎやかになる。上手になりすぎたウグイスの声があたりに響き渡っている。開け放った窓から、森の香りがヒュルリとしのびこんでくる。この朝の空気がたまらない。六月の朝はことさら爽やかである。樹木には若い葉が出揃い、ぷるぷる風に揺れる。森の精気が、朝子の体をめぐる。幸せを感じるのはこんなささやかなことなのかもしれないと、朝子は思った。 ほどよく焼けたトーストに、朝子手作りのイチゴジャムをたっぷりのせて、がぶりと口に入れる。酸味と甘味が口の中にひろがった。 コーヒーを飲みながら、二日前に届いた誠からの手紙を読み返した。上手とはいえない夫の字が懐かしかった。慣れない生活に戸惑っていることや、初めて体験するボランティア活動の真意、体調のことが簡単に書いてあり、元気でいるので心配しないようにと結んである。 突然会社を辞めた理由や、ボランティアに応募した動機はなにひとつ書いていない。朝子は、智子が言った「ボランティアに逃げた」、という言葉が心にかかっている。 朝子と誠が知り合って、かれこれ四〇年になる。誠は無口で、必要なこともあまり言わない。子どものころは陽気な子だったと、誠の両親は言っていた。 二人の子どもが自立して家を出てからは、ますます会話がなくなった。話しかけても「うん」、「いや」、「わかった」くらいの返事が返ってくるだけで会話が成立しない。 ―― 話しても、どうせ聞いていないのだから……。 けんかするわけではないが、つまらない生活だと思う。同じ家で生活をしているのに他人のようだ。 ―― なに、考えているのだろう。 物憂げな夫の様子に朝子は投げやりになる。そんな生活に嫌気がさしていた。離婚したいわけではない。しかし、このままでは先が見えない。不純な動機ではあったが、シニアボランティアとして海外へ行こうと思ったのだ。誠も同じ気持ちなのかとさみしくなった。 夫婦のあいだにも埋めることのできない溝や、話せない過去があるのだろうか。誠のことを思うと心が沈む。そんな朝子の心を、この森の空気がさらりと洗ってくれる。ここに住むことにして良かったと思った。
朝子が働いている福祉施設は、おもに知的に障害を持った人が通う。仕事とは別に、精神に障害を持った人が就労する福祉施設で、毎週土曜日にボランティア活動をしている。同じくこの世に生を受けながら、障害のある人とそうでない人がどこで分けられてしまうのだろう。 「まともに働いて結婚もしたいけど、こんな病気じゃ無理だし」 そう言っていた統合失調症の男性がいた。人とのコミュニケーションをとるのが難しいと嘆く。彼らを受け入れる職場は少ない。ゆったりと自分の世界で生きている人も多いが、病気に傷ついている人もまた、数多くいる。 朝子は不満の多い自分が恥ずかしいと思う。結婚をして子どもを育て、健康で半世紀を生きてきた。それで十分ではないか。衣・食・住こと足りて、これ以上なにを望もうとするのか。彼らとかかわってたくさん感じたはずなのに、それでも欲や不満が鬱積している。業の強さを恥じた。情けないとため息をつく。 昨日、仕事が終わって自転車で風花にやって来た。土曜日の今日はボランティアがある。刺すような陽射しが真夏のようだ。吹く風や草木の匂いが心地よい。急勾配の坂道を一気に下る。懐かしい青春の日々がよみがえった。 夜には、施設のビールパーティがある。朝子はアルコール類が苦手だ。いくら飲んでも酔わない敏を誘った。敏には、慶子や智子以上の友情を感じている。表現がストレートで嫌味がなく、妙な安心感がある。何事にも臆することなくいつも堂々としている。大地に根を下ろす大木のような人だ。朝子は、そんな敏を誠とは違った意味で尊敬している。 会場は、人であふれていた。 「おれたちの町に、どれくらいの人がいるのかなあ」 四杯目のビールを口に運びながら敏はつぶやいた。障害者といわれる人が何人いるのか、朝子にもわからない。仕事でかかわるようになって、少なくはないということがわかった。親子や夫婦、友人に仕事仲間、健常者も障害者も、助け合い支えあっていくことができるのが、人間社会なのだろう。
昨夜、遅くまで夜の街を遊んでいたので目覚めが悪い。 緑ヶ丘の家はオール電化で換気システムも整っていて、快適な住まいだ。お風呂やトイレ、キッチンは朝子の手入れが行き届き、気持ちが良い。狭い庭には花が形よく植えられ、色であふれている。遠くには斜里岳が雄雄しくそびえている。せみや小鳥の声が聞こえ、のどかだ。 しかし、風花とはなにかが違う。 ―― 風かな……。 と朝子は思った。車の交通量や家が多い緑ヶ丘には、森の香りがしない。都会の風が吹いている。快適な暮らしをするために、素朴ななにかが失われた。風花は不便だが心が癒され、素直な自分に戻れる。 掃除と買い物を済ませると、自転車で風花に向かった。学生のころにはこの坂を一気に上がっていけたのに、いまの朝子は押しながらでも息がきれる。 持ってきたターシャ・テューダの本をめくりながら、午後のひと時をまどろむ。小鳥の声や風に揺れる木の葉の音がBGMになって、とても気持ちが良い。朝子の体から疲れがスルリ、スルリと抜けていく。 六月の夕暮れは遅く、六時になってもまだ太陽は強い陽射しで照りつけている。 朝子は掃除をしようとテーブルを壁に立てかけ、息を呑んだ。輝が持ち込んだ大きなテーブルの裏には、彫刻した一枚の板がはめ込まれていたのだ。草原に立つ少女の髪が風に揺れ、遠くに二頭の馬が草を食んでいる。ススキの穂も風に揺れ、少女の手にリンドウの花が美しい。少女の赤い唇と、青いリンドウの花だけに色がつけられて、木目のなかで輝いている。片隅に「夕霧に立つ少女」と刻まれている。幻想的で、まるで水彩画のようなその彫刻に見入っ
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