國井家は伊達一族 宮内家の家臣としてi代々奉公し、戦国武将の伊達正宗の時代から仙台藩の藩医の職を務めていた。
■ 仙台藩の攻防と駒ヶ嶺城の歴史 ■
先祖、國井玄長は陸前国 栗駒山の麓、伊達領栗原郡三迫の地で伊達家 宮内中勢太輔宗忠に従い、永世医薬奉の職を賜る。 
「医は仁術なり」医道とは道徳的献身だけではなく、人を愛し人を助け、日々たゆまぬ努力と研究に励むことである。




トップページ
概  要  紹  介
新  着  情  報
掲  示  板
リ  ン  ク
仙台藩医学校
瑞鳳殿 伊達家
決戦駒ケ嶺城
青葉城資料館
駒ヶ嶺城の城郭





武道の精神とは、仁、義、礼、忠、孝、勇、信、を柱とした教えであり、儒教の教えを汲む人生哲学です。そして、「医は仁術なり」医道とは道徳的献身だけではなく、人を愛し人を助け、日々たゆまぬ努力と研究に励むことです。



國井玄長 伊達一族 駒ヶ嶺領主 宮内中勢太輔宗忠 家臣

----------------------------------------------------------------------

家紋:隅切り角に抱きおもだか

 

國井家の遠祖は藤原氏の出とあり、先祖の國井玄長は、陸前国(りくぜんのくに)栗原郡三迫村(現在の宮城県栗原町/栗駒町「さんのはざま」と読む)の出身である。同地は、伊達領から奥羽、秋田への交通の要所として古くから開けていた地域で、神社仏閣、番所門、街道沿いにみられる旧家の土蔵や門など、歴史を物語る道跡が今も多く残されている。また「神楽」「正藍染」など上方の流れを組む文化も数多く形成・伝承された。玄長は、この地で儒学・蘭学・医道(藩医大槻玄梁に影響)を学んだ。この地はもともと、葛西氏を祖とする富沢河内守道の領地で、戦国期に岩ヶ崎城が築城され、城下町として栄えたが、天正十八年(1590年)豊臣秀吉により滅ぼされた。その後、栗駒地方は戦国武将 伊達政宗の領地となり、1604年には政宗の五男宗綱が、その死後は六男宗信、以後石母田氏・田村氏・古内氏・茂庭氏らが城主となりこの地を治めた。正保三年、伊達一族の宮内因幡定清が武官として居館、領内に町奉行、郡奉行、代官、等を置いた。國井玄長は医道を以って寛永の時代(1624〜1644年)に伊達家家臣の宮内家に仕官し召抱えられた。同地は、元禄七年(1694)に中村日向成義が領主となって、明治期まで治めたが、國井家一族は宮内家の領地替えの時に、栗原領を離れ相馬領に移っている。なお、現在の岩ヶ崎城は、鶴丸城ともよばれ城址は、桜の名所となっている。


玄長の生まれ故郷である栗原郡に連なる栗駒山連峰(宮城県)


 

國井玄長は、天和二年七月(1682年)に死去している。「仙台藩宮内家」の家臣として召抱えられてから、代々永世医道、奉薬の職を務めた。二代は國井玄流、三代も玄流と称したが、享保三年、玄流の代に相馬郡駒ヶ嶺領(福島県)に移住とある。主君の宮内家は、伊達家臣団の中でも、晴宗(正宗の父)の代から上席を占める一族であり、祖先は「遠藤長門守盛栄」である。天正九年、「遠藤修理亮重清」の代において、伊達晴宗より謀反を未然に防いだ功績から、晴宗の一字を賜り、苗字を宮内と改め「宮内中勢太輔宗忠」と称すという記述がある。また、遠藤家は伊達一族家臣団に名があり、戦国武将として奥羽全土の合戦に参戦し、古くから伊達家に仕える譜代であった。

 

江戸中期享保三年(1718年)に「宮内主税」が、相馬郡駒ヶ嶺の領主となり駒ヶ嶺城(相馬との藩境警備の城)城代として居館することになる。國井家の記録にも、宮内家の家臣として、駒ヶ嶺城下に移りしとある。二代玄流は、宮内家(一千四百石)において、医道薬俸の職務と次席家老・留守居役以上の地位を与えられた。國井家は、代々藩医(御殿医)を継ぎ、次男も奉行職(國井源五郎)などの要職を仰せつかり、宮内家の譜代家臣として明治維新まで駒ヶ嶺領の城下に居住した。三代國井玄流(享保廿年死去)のあとを、三適(宝暦元年死去)、玄適(寛政弐年死去)、道適(享和弐年死去)、休庭(文久弐年死去)、秀閑(明治廿五年死去)、秀栄、そして菊弥と、長男が医道(藩医)と家督を継いでいる。國井休庭は天保十二年六月京都学問所にて、正三位医道の免状を賜る。八代の國井秀閑は、藩校である養賢堂で学び、宮内家の家老職を仰せつかり土地・山林(知行)を賜る。秀栄の代で年号は明治と改まり、明治二年に家禄俸還と記せられている。十代國井菊弥は明治元年(慶応四年九月)に仙台城下で生まれている。


江戸時代の医学書


■國井家代々家督相続の系図

一世 國井玄長(天和弐年没)  伊達家重臣の宮内長十朗徳清の家臣となる
二世 國井玄流(正徳五年没)  宮内家において医道、薬奉の職を務め留守居役となる
三世 國井玄流(享保廿年没)  宮内主税が相馬郡駒ヶ嶺領主となり國井一族も従う
四世 國井三適(宝暦元年没)  國井家は、仙台藩宮内家御殿医及び次席家老を勤める
五世 國井玄適(寛政弐年没)  仙台藩の学問所が創設され、後の養賢堂で学ぶ

六世 國井道適(享和弐年没)  仙台藩医学校で正式西洋医学を学ぶ 長崎留学
七世 國井休庭(文久弐年没)  天保十二年 國井休庭 京都にて正三位医道免状を授与
八世 國井秀閑(明治廿五年没)  國井家は家老格に列せ、宮内飛弾晴清より土地山林を賜る
九世 國井秀栄(大正元一年没) 日清戦争軍医従軍 傷病兵致護の功績で勲八等を授与
十世 國井菊弥(大正十五年没) 日露戦争軍医従軍 傷病兵致護の功績で勲七等を授与
十一世國井立人(昭和三十六年没)福島より上京し医大卒後、東京向島にて病院開業


伊達 相馬領の要所 戦国を代表する要塞 駒ヶ嶺城

 

■堅固な戦国時代の城として藩境防衛を目的に築城■

 

駒ヶ嶺城(臥牛城)は、相馬盛胤が、伊達氏への対抗を強化するため、新地のつなぎとして、永禄年間(15581569年)に築いたものである。城の構造としては、南西から北東に楕円形となっており、本丸を中心に二ノ館、三ノ館、西館の四連部からなり西から北西にかけて二重堀をまわしている。内堀は各館を囲み、これを土橋でつないでいる。二ノ館、本丸入口及び、西館との中間、西館南端の四ヶ所に虎口がある。相馬領のときの城代は,相馬の家臣である 藤崎摂津であったが、その子藤崎治部の代、天正十七年(1589年)に「伊達政宗」に攻め落とされた。それ以後は、新地・駒ヶ嶺一体は伊達の領地とされ、政宗は、この地を国境の城として大変重要視した。亘理美濃をはじめ、黒木中務、伊達忠宗、桜田玄蓄、新田下総、冨塚長門などの重臣を城代とし、仙台藩の支城となる。江戸中期の享保三年(1718年)から「宮内主税」が城代(領主)となった。慶応四年(1868年)八月、戊辰戦争で官軍の攻撃により炎上し、その歴史を閉じた。戊辰の役では、新地・駒ヶ嶺一帯は仙台藩(旧幕軍・奥羽越列藩同盟)の前線基地となり、駒ヶ嶺城(宮内飛弾壱岐廣清)に本営が置かれた。八月七日、駒ヶ嶺口の戦いが始まり、城下は戦禍に巻き込まれ、十一日には駒ヶ嶺城が攻撃により炎上、二十日に最後まで戦った仙台藩松山隊と宮内の城兵が敗れ、戦いは終結となった。戦死者は仙台藩と旧幕府軍合わせて二千人、官軍はそれを上回っていた。現在は、城跡が残るだけである。


 

仙台城

 


■戊辰戦争における、奥羽列藩同盟最後の激戦地■

 

戊辰戦争においては、仙台藩は旧式鉄砲、官軍は洋式銃と大砲の戦いであったが、駒ヶ嶺の戦闘では官軍の損害は幕府軍を上回った。さらにこの辺一帯は、湿地帯で、腰まで沼に浸かって動くことも容易でなかった等の記録が残っている。宮内の家臣達は、仙台藩の兵士とともに相馬領との藩境防衛線で初戦よく奮戦するが、官軍との武器・兵器の差ははなはだしく、仙台藩も多くの戦死者を出して撤退を余儀なくされた。國井秀閑、秀栄親子は、藩医として戦火の中で仙台藩や幕軍の負傷兵の治療にあたった。宮内の家臣達も城下で戦い多くが戦死、負傷した。幕府軍の敗因は、奥羽列藩同盟であった相馬藩の裏切りにより、前線を突破されたことにある。相馬口駒ケ嶺付近では、激戦となったが、仙台藩の兵は各隊がその場の目先で戦うことを余儀なくされ、藩重臣達は前線の戦況を掌握できなかった。最後まで戦ったのが宮内指揮下の兵と仙台藩の松山隊である。

松山隊は、初め仙台湾の警備に当たり、艦船の出入りを監視していたが、七月初旬になると、磐城方面応援のために二小隊が駒ヶ嶺に派遣され、八月には松山隊全軍が駒ヶ嶺城の援軍として相馬口に出動を命ぜられた。駒ヶ嶺城は十一日には落城するが、仙台藩は八月十六日、二十日の二度にわたり防衛の要衝、駒ヶ嶺城の奪回を図るが、成らず。二十日は駒ヶ嶺で最後の激戦となり多くの戦没者を出した。秀栄の従兄弟、國井文吉や健蔵も戦死している。そして旗巻峠の戦い(細谷十太夫)の後、最終的に仙台藩兵一千三百人が戦死し、九月に藩は戦を止め、なし崩し的に恭順・開城となった。旧幕海軍の榎本艦隊が松島沖に集結したのは八月二十六日の事であった。
その後、仙台藩は、明治政府より賊軍盟主の責任を問われ、実高100万石からすると三分の一以下の28万石に減封される。この激烈な減封により、仙台藩士たちの生活は完全に破綻し、在地で帰農する者の他、新天地を求めて北海道へ移住する者たちを大量に出すことになる。宮内家の重臣達も帰農するか、仙台城下の侍町だった東一番丁で没落士族達が商売を始め、現在の中心商業地「一番町」へと繋がっている。

 

■戦火の中 本庄忠輔長孝の屋敷にて國井家十代「菊弥」誕生■

 

國井家の妻子と家族達は、駒ヶ嶺の戦火を避けるため、仙台城下の小田原金剛院町にある親戚筋へ疎開。藩大番組・本庄忠輔長孝の屋敷に避難していた。その中で、國井家十代「菊弥」が生まれる。明治元年九月三日(慶応四年)のことである。明治になって、國井秀栄は駒ヶ嶺村で村医を開業、後に大日本帝国陸軍の軍医(仙台陸軍衛生病院付)として従軍。明治廿八年日清戦争の功績おいて勳八等を賜り、小松宮殿下より慰労金を賜る。同年日本赤十字病院役員になる。また、國井菊弥は、軍医となり明治参拾八年に日露戦争の功績により勳七等を賜る。その後、帝国陸軍軍医(少佐)として樺太の地で死去している。菊弥の妻ヤスは、葉山家の出で七人の子(立人、マサイ、ヤヨイ、正巳、キクヨ、忠重、幸江)に恵まれた。長男の國井立人(明治廿六年九月十八日出生)が上京して医師となる。その後、立人は松田富子(旧会津藩松田家)と結婚、大正末年に東京向島で病院を開業する。関東大震災や東京大空襲の時は、被災者の救護、治療にあたり地域医療に貢献した。昭和三十六年に脳溢血で亡なる。立人には七人の子供がいるが、長男の孝泰は医大生の時に事故で死亡した。長女である國井和子(昭和二年二月/生)は國井姓で医道を継いだ。筆頭は、孝泰の弟の國井孝、和子になる。私、慶太は、その「立人」の曾孫、「和子」の孫にあたる。



■もうひとつの祖先「飯田源甚衛」その昔、加藤清正公の家臣■

 

ちなみに、私の母方の苗字=旧姓は飯田(祖父 飯田成美)である。その飯田家を調べると、祖先は九州有馬藩士の飯田源甚衛(いいだげんべい)である。さらにその祖先は、戦国時代の武将加藤清正公の家臣「飯田覚甚衛」の家系と聞いている。実際、我が家には、源甚衛の鎧箱があるが、その中には、甲冑や刀剣、剣術指南や砲術・弓術の免許皆伝の巻物、家系図などが納まっていた。また、祖父の母方については、村上水軍の末裔という系統もあり、系図や文献を調べていると戦国絵巻ができて楽しくなる。

熊本城築城に関しては、歴史的にも飯田覚甚衛(飯田直景)の名が出てくる。熊本城の本丸は「天守台」「平左衛門丸」「数寄屋丸」「飯田丸」「東竹の丸」「竹の丸」「西出丸」に分けられ、飯田丸というもう一つの天守閣が有名で、南西隅に建つ五階建ての櫓が「飯田丸五階櫓」である。飯田丸の名称は加藤清正の重臣、飯田覚兵衛(いいだかくべえ)が守備・管理していたことから、こう呼ばれるようになった。熊本城南面防衛の要であり、櫓と塀で囲い込まれ、内部には井戸や台所、鉄砲蔵までも設けられている。西面には西櫓門を備え、出撃することも可能である。つまり飯田丸だけでも小さな城としての機能を持ち、天守閣の役目を果たしている。

熊本城


飯田 覚兵衛(いいだ かくべえ 、1565年(永禄8年)? - 1632年10月31日(寛永9年9月18日))は、山城国、あるいは大和国の出。父は飯田直澄。幼名才八、久次郎。角兵衛。名は直景。基久、重氏ともいう。若い頃から加藤清正に仕え、森本儀太夫、庄林隼人と並んで加藤家三傑と呼ばれる重臣となった人で、合戦では槍の達人として知られる。

司馬遼太郎著「おれは権限」で、七編の時代短編小説が収められている一つに「覚兵衛物語」がある。肥後加藤家の老臣、飯田覚兵衛が主人公である。八歳の頃、仲間と相撲と棒打ちをする。負けたものは終生勝った者の家来になる約束をする。その時勝った加藤清正が豊臣秀吉の家来になるが、覚兵衛も約束を守り、清正の家来となる。武勇に優れ、中でも槍術は特筆すべきものであった。賤ヶ岳の合戦においても清正の先鋒として活躍した。後に朝鮮出兵の際には森本儀太夫と共に亀甲車なる装甲車を作り、普州城攻撃の際に一番乗りを果たしたといわれる。この功績によって豊臣秀吉から「覚」の字を与えられた。土木普請も得意とし、清正の居城となった隈本城の築城には才を発揮した。180mにもおよぶ三の丸の百間石垣などは彼の功績といわれ、「飯田丸」と郭にも名を残している。飯田丸の名は、飯田覚兵衛」が築城と守備を担当したところから由来している。今も、飯田丸には、篭城に備えて城内に掘られていた井戸が残っている。その後、名古屋城普請や江戸城普請にも奉行として参加した。清正が没後は子の加藤忠広に仕えるが、外様大名加藤家の力無しと見た幕府は、1633年将軍・徳川家光によって改易を実行。ここに豊臣恩顧から徳川外様として生き残りを図った大名家はまたも無残な最期を辿ることとなった。これには諸説があり、一説では忠広が家臣団を統率できなかったためとも、法度違反のためとも言われている。。 /文責 慶太

・Thank your for coming! Please see other pages. It is waiting also for your message.


・國井家と飯田家の家系について、資料や文献をもとにルーツを紐解いてみました。(慶太)







RAK2ホームページ作成
>> 誰でも作れる、超!簡単な無料ホームページ
あなたのホームページ・メールマガジンに広告を載せてみませんか?
成功報酬型で広告費を支払うエーハチネットがおすすめ。
  簡単!無料HP
  @games
  ゲーム特集
×