國井家は伊達一族 宮内家の家臣としてi代々奉公し、戦国武将の伊達正宗の時代から仙台藩の藩医の職を務めていた。
■ 仙台藩の攻防と駒ヶ嶺城の歴史 ■
先祖、國井玄長は陸前国 栗駒山の麓、伊達領栗原郡三迫の地で伊達家 宮内中勢太輔宗忠に従い、永世医薬奉の職を賜る。 
「医は仁術なり」医道とは道徳的献身だけではなく、人を愛し人を助け、日々たゆまぬ努力と研究に励むことである。

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  日本の家紋に関する記述
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■姓氏と家紋について。國井家の家紋は「抱きおもだか」である■

■人間の上昇志向/ 武家の家紋/ 血縁・地縁と家紋/ 家紋の推移

 本来の姓・氏と家紋との間には、何の関係もない。現在のいわゆる氏名・姓名と称する名字、苗字とは関係があると思われる。すなわち、苗字(名字)にからんだ絵解き的紋、例えば井伊氏の井文字紋、陶山氏の洲浜に山文字紋等々がわりあい多く存在するからだ。とはいえ、名字の多くは地名によっているから、地勢の似たところには同名も多い。したがって血縁等待った来ないにもかかわらず同苗ということで、ぞれにつられて同じ図案の紋が存在することもある。さらに他の多くの家紋は、守護神、土俗信仰、流行紋様や、創始者の信条・嗜好によっていることもある。名字と家紋の関係は、直接的にあると即断することは危険かもしれない。ただ、なんらかの相関関係は見い出せるといったところだろうか。

人間の上昇志向

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 姓・氏と家紋を結び付ける誤解を植え付けるもととなったものは、江戸時代、武家の手になる武家を対象とした「寛永諸家系図伝」「寛政重修諸家譜」のための家譜書き上げを担当した、当時の歴史家(学者・儒者を含む)の無知誤解にあったと考えられる。
 その誤解の淵源は、室町時代にかもされた大義名分論的源平の政権交代思想や、これに続く四大貴姓といわれる源・平・藤・橘重視の思想であろうか。この誤った思いこみにより、天下人を夢見る戦国大名が、次代の天下を希望的に占って、次つぎと氏を変えて行くこととなった。
 織田信長は、もともとは忌部氏であったらしいが、藤原氏といい、のちには平氏を称した。豊臣秀吉も自己の出自をいかにするか悩んで、藤原氏の猶子となりついには豊臣氏を新たに称した。徳川家康もまた、藤原を称し、のちに源氏に鞍替えしている。
 これは、盟神深湯(kugatati)に已に見られる姓氏詐称の古い先例のように、古代からの身分上昇を願う心理で、人間の体質ともいうべき、人類共通の貴種を尊重する心理と大きく関わっているといえよう。
 家紋もまた、かくあったものと推量して付会創作することとなる。したがって今まで用いてきた紋じるしは無視できず併用され、元来一家にひとつの家紋であるものが数えお増し、替紋が数個にもなる原因となった。
 現在の名字は、明治維新後の国民皆姓により名乗ったものが多い。それまで公に名字を称し、家紋を用いていた武士のように、家のシンボルとしての家紋を創作、用いるようになった。もっとも家紋を用い得たのは、資力のある、礼装の黒紋付羽織袴や据えるべき調度を持てる地主階層、町人たちに限られたが、り高い階層への上昇志向によって、一部に急速に広まっていたと考えられる。
 名字・家紋意義を限定して、これらを用い得たものは、元和偃武の前、江戸時代草創の頃までの、たとえ新規創作であったにしても、武家のみであったと考えるのが妥当なところだろう。したがって、主体的に戦うことのない卒族=足軽には、元来名字も家紋もなかった。
 公家はといえば、名字にあたるものは称号であり、家紋にあたるものは、江戸末期までは家の紋様であって、家紋はなかったと考えられる。

武家の家紋

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 武家の家紋の由来を大別すれば
1)五布よりなる陣幕の染め分けの引両紋(新田氏・足利氏)・黄紫紅紋(三浦氏)
2)旗の文言・図案・神仏号・祈願文・神仏具紋・神使紋
3)旗の招きの依代の笠(少弐氏)・団扇(児玉党)・傘(名越氏)・扇紋(佐竹氏)
4)文様(鎧の直垂などの絞り、織文様からの転用)。目結(佐々木氏)・鱗(北条氏)・格子(遠山氏)・三つ柏(葛西氏)・梶の葉(諏訪氏)
などがある。はじめは、一族・一党の守護神来迎の依代の旗は、団結・勝利のシンボルでその一団に唯一個のものであった。後の鎌倉末期には分離独立をはかり、竹崎季長のように独自の旗を創作する者もでてきた。ついで戦乱の南北朝期は一族や党よりの独立、本家よりに分立期であった。このころに、多くの家紋が派生していったと考えられる。室町時代になった「見聞諸家紋」をみると、自家の家紋に足利方の名残をとどめて二つ引両に付加合成したものもみえる。

國井家の家紋:隅切り角に抱きおもだか

「沢瀉:おもだか」正確には細枠が加わる。

日本十大紋の一つ。オモダカは池や沢、田んぼなどに自生するクワイに似た水草で、可憐な花を咲かせます。古くは王朝時代に貴族の車や武具の文様として用いられ、やがて家紋に転じたものと云われています。沢瀉は面高「面目が立つ」に通じるとか、葉の形が矢じりに似ている、別名「勝ち草」とも呼ばれるなどのことから、武人・武将の家紋として普及しました。毛利元就が戦に臨む時に沢瀉に蜻蛉が止まったことを吉事として用いたという故事があります。武将がこの沢潟紋を好んで用いたのは、オモダカの別名を勝ち草ともいったことから、戦陣の縁起紋としていたようです。天保改革で有名な水野越前守忠邦も家紋として用いましたが、徳川家譜代の水野家の家紋に沢瀉が使われてから、江戸時代は武家の裏紋としても起用されました。 古来より戦で勝利をもたらす植物といわれ武家には愛されてきました。また、沢瀉紋の独特の形が盾に似ているからといった説もあります。したがって、明治になってからも、平民で沢瀉の家紋を使うことは少なかったようです。実物の花は白い可憐な花を咲かせ武家のような強いイメージがないところが少し面白いです。「沢瀉」と明記していますが「沢潟」と書く地方もあります。



■ 血縁・地縁と家紋
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 身近にいる親類・知人をみてみると、思いがけないところにイトコ・ハトコがいたり、戦前まではある家の名子・子分であって、盆暮に挨拶にきていたものが、戦後の変動に、イトコと称している例がありはしないだろうか。あるいは、家の看板・屋号をことわりもなく遠い縁者が用いていたりしないだろうか。
 共同作業が宿命の百姓と、請判で一夜にして乞食ともなりかねない町人とでは、親族観、交際法は相当異なるが、零落すれば近き肉親も他人となり、赤の他人であっても成功すれば身近の縁者となったり、されたりすることはままあることだ。これにはそれぞれに尺度の相違がある。一つには貧富、ひとつには血統・家系があげられる。貧富は時の運と軽くみることができるが、金ではすぐに買えない家系が、やはり重くみれれるだろう。
 一代で富を築いたものが、名家と婚姻をする例は現代でも多い。これは金で血を買ったというべきもので、次の代に家系の上昇を願ってのことだろう。江戸時代の武家にも、より上層の家とは無縁のものが継ぐ例が多くあった。富か血統か、あるいは名跡か、何をより良しとするかは、それぞれの価値観によることはいうまでもない。
 人はえてして、自家に不都合なことは隠蔽したり、後に伝えなかったりし、手前勝手な修飾、捏造をする。有力な反証が内限り、のちには虚偽も含め主張、書き残されたものの言い分が、よほどの破綻がないかぎり、黙認されることとなる。一般に系図ほど当てにならないものはないといわれながらも、これに頼らざるを得ない。そしてその系図に合わせられた家紋も、無条件に信用はできない。いわゆる家紋の形状を伝える文字は変化しないが、図案は流動的である。複写の際に変化して正確には伝わっていないことの方が多いようだ。 戦後、家紋も思いつきや、紋帳によって好みの紋を用いている例もままあるようだ。僭用により江戸時代以降。ただの紋。通紋にまで下落した「桐紋」をあとあとの紋付の売買・貸借までを考えて紋としてつける嘆かわしい例もある。【図:五三の桐】
 室町時代、一般庶民は名字を名乗ることを許されず、それはかなり厳しく守られていたようだ。これは良民の人工移動がない封鎖的な社会では、家系身分は自他ともに明白で、おのずと相互に規制され、身分の詐称、名字の僭称は不可能に近かったであろう。もっとも名字を名乗れるような土豪は、その地を支配し、勝手な姓・氏の仮冒変更もできたと思われる。平家の落人と称する集落や、木地屋集団の皇胤説もこれに当てはめられるものだ。かれらの有する偽文書も激動期の所産であることが多いようだ。
 家名のシンボルの家紋も例がいではない。庶流は嫡流を称したがり、家臣はともすれば主家の名字を冒す。戦国期より元和・寛永まで、立身を夢見て諸国を放浪し、主を変えた武士も多い。一方では名誉を重んじ、名家尊重の風が強く、武功の履歴とともに、召し抱えられやすかった名家の後胤を名乗ることも当然あった。あるいは同じ旗の下に戦った無名字の軽い身分の者でも、のちにはその旗の紋を家紋にし、その末流と称したことだろう。あるいは、その地方の大社を信仰し、その神紋を用い、同紋ゆえにその地の名家出身と称するものもあったことだろう。遠く伊勢出身と称する身元不明の北条早雲が後北条氏を称し、三つ鱗紋を用いたように、小形の早雲は数多くいたと考えられる。
 このように考えてくると、各地各国の家紋に分布を統計的に割り出したとしても、血縁的・歴史的な関連を裏づけてゆくことは、難しいようだ。

國井家一族 正月写真(昭和10年頃)


■家紋の推移
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 戦国時代、個人の槍一筋の功名は。一城・一国の主ともなりえたので、一族の守護神の依代、一党の団結のシンボルの旗は、個々人に招かれて背旗となり、八方より目立つ立体化した指物となり、武功の商標へと変化する。一族一家の紋章というより、個人の紋章となったのである。
 ところが、この発刺とした旗指物のしるしは、元和偃武後、島原の乱を経て行き場を失い、多くはその身一代のものとして忘れられていった。江戸時代の「寛永諸家系図伝」「寛政重修諸家譜」に「家の紋・旗の紋・幕の紋」と分類して尋ね、その結果ひとからげに家紋としたことにその原因がもとめららはしないだろうか。つまり、姓・氏と家紋は関係があるとするその編集者たちの悪しき先入観によって、家紋となるべき旗指物は消えてしまった。それとは別に、戦塵のなかに生まれた奔放な、例えば落合左平次の「鳥居強右衛門磔の図」や「五輪塔」「野ざらし」などは平時にふさわしくないとして、家紋とはなりえなかった。有名な斎藤道三や山内一豊の「立波紋」は一代限りとなって後を断ち、道三のは斎藤氏の代表紋である「なでしこ紋」に、一豊のは山内首藤氏の家紋とされる「一文字・三つ柏紋」になってしまった。山内氏は各地にある地形に由来するありふれた名字で、一豊が山内首藤氏の流れである確証はない。むしろ、江戸時代に、土佐山内氏に使者にたち、同紋使用をなじれらた萩毛利家の家臣山内氏のほうにその正当性をうらづける史料が伝わっている。牧野氏の有名な「五段梯子」の替紋、形原松平氏も「丸に利の字」は旗章より家紋となった数少ない例である。
 一方替わって、外様大名の大方は、前代よりの「桐紋」「菊紋」を用い。宗氏のように「菊・桐紋」が十万石格の獲得になにがしかの働きをしたものと思われるものもある。伊達・津軽・鍋島は牡丹紋を加えて家系を飾り、織田氏は信長の平氏出自伝説によって、誤った平家=蝶紋を用い、信長自身の旗の紋「永楽通宝」は消えている。
 橘氏出自の諸家が「橘・山吹水」を家紋とするのは、藤原氏出自の諸家が家紋は藤だと誤信して「上り藤・下がり藤の丸紋」を用いたのと同じように、橘氏は橘紋だったにちがいないとする誤解により、また有名な橘氏出自とする楠木氏の「菊水紋」に、また橘諸兄の山吹を愛した故事にかけて「山吹水」を創作したものと考えられる。【図:丸に橘】

・・・
 現在各家が用いられる家紋は、それぞれに理由があり、また歴史的事実に由来するものも多いことだろう。各自の嗜好によって、さまざまに楽しみ用いることは一向に差し支えない。とはいえ、由緒正しいものは大切に扱いたいものだ。

【昭和53年新人物往来社刊:歴史百科日本姓氏事典掲載から引用】


  中村藩の降伏から旗巻峠の戦いまで、駒ヶ嶺城攻防戦に関する記述
Date:
■官軍極悪参謀の世良の暗殺と相馬中村藩の降伏!

官軍の参謀で悪行を重ねる「世良修蔵」という男は、奇兵隊書記、第二奇兵隊軍監を経て、戊辰(ぼしん)戦争に際して、奥羽鎮撫(ちんぶ)総督軍の下参謀に任命された。会津藩の軍事攻略を主張して、奥羽同盟諸藩の和平嘆願書をはねつけた。仙台藩に対して、会津を討てと主張した。会津救済を嘆願した仙台藩や、奥羽諸藩の君主に対し非礼なる対応をしたため、その家臣たちに暗殺された。もともと世良は武士でもなく、官軍の参謀としてその地位を使い、悪徳の限りを行っていたので当然の報いであったが、世良の暗殺が戊辰戦争のはじまりであった。1868年(慶応4)閏(うるう)4月20日早暁、福島城下金沢屋に宿泊中、仙台・福島両藩士に捕らわれ、須川河原で斬(き)られた。のち宮城県白石市陣場山(じんばやま)官墓に葬られた。(旗巻峠の密書より)
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※詳細=世良修蔵暗殺の顛末
 世良が大山に宛てた「密書」を読んだ瀬上主膳以下の仙台藩士達は激昂した。特に、『奥羽皆敵』という世良の言葉に、仙台藩士らは激しい怒りを覚えたと伝えられている。
 仙台藩士達は、「世良を暗殺するか否か」の基準としていた「会津藩嘆願の受け入れの可否」について、世良自身は受け入れるつもりはないと、この密書を読んで判断した。
 確かに、この密書の内容が本物であれば、仙台藩士らがそのように判断したのも致し方のないことであった。世良はまさに極悪人であった。
 また、瀬上の元に、世良が翌朝の午前六時に出発するので人夫を差し出すようにと命令したとの情報が届き、ここに至って、瀬上は大きな決断を下した。
 瀬上は、「この上は白石の本営の指示を待つまでもない」と世良の暗殺を決断し、客自軒において、世良襲撃のための計画を練り始めた。
 世良修蔵襲撃のために選ばれた者は以下の者たちである。


(仙台藩士)瀬上隊軍監・姉歯武之進、大槻定之進、瀬上隊書記・岩崎秀三郎、瀬上隊監察・小嶋勇記、参政書記・松川豊之進、末永縫殿之允、投機隊・田辺覧吉、赤坂幸太夫

(福島藩士)用人・鈴木六太郎、目付・遠藤条之助、番頭・杉沢覚右衛門


 また、彼ら正式な武士の他に、浅草宇一郎(あさくさういちろう)という目明しが、世良襲撃に手を貸すことになった。浅草宇一郎は仙台藩領大河原の出身で、当時は福島城下で旅籠「浅草屋」を営みながら、目明しを兼ねていた人物である。
 この「浅草屋」は、世良が居た「金沢屋」、そして瀬上が居た「客自軒」とも目と鼻の先にあり、『仙臺戊辰史』によると、浅草は直接瀬上の元を訪れ、「当地にて召し捕り物がある際には、我ら卑賤の者が先にあたります」と世良襲撃に参加したいと申し出たことが書かれている。

 しかし、福島藩側の記録である『板倉家御歴代略記第参』(福島市史資料叢書第22輯)では、その辺りの事情が少し異なっている。
 『板倉家御歴代略記第参』によると、世良を襲撃するためには、金沢屋の間取り、その周辺の事情や地理に詳しい先導役が必要であると仙台藩士らは考え、瀬上の部下である姉歯武之進が当時目明しであった浅草宇一郎の元に出向き、金沢屋への手引きを依頼したが、浅草は「他藩の者の命令は受けない」とその命令をを断ったと書かれている。
 そのため、仙台藩士らは已むなくそのまま金沢屋を襲撃することになったとあるが、これは少し事実とは違うようだ。

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■中村藩 官軍となる!

 そしてその後、相馬中村藩降伏が認められ、大役を果たした富田、佐藤、岡部の三人は急ぎ中村に戻ろうとした所、参謀・河田佐久間は仙台藩兵はどこにいるのか聞いてきたため、仙台藩兵は中村にあり、鹿島に至るまで二百を数えること、中村藩兵も逗留していることを告げた。河田は、「然らば我が軍直ちに鹿島に進まん、軍行かば中村の兵、仙兵と混同せずして進み、官軍に近づき旗を振って伏すべし、我また旗を振ってこれに応ぜん、これ降伏の例なり、然してともに仙兵を討たん、而して中村兵隊の印は如何」と聞いてきたため、富田は、「黒白班々のキレを用ゆ、いわゆる小六形なり」と教えた。

 河田は鹿島の敵を討った後は、その勢いで中村城を救い、総督府を迎えるよう指示して三人を帰した。帰途、小高村に立ち寄った富田は岡部に、「君上、今や中ノ郷深野(南相馬市原町区深野)に来たり給ふべし、子行きて降伏の成るを陳じ、君を奉じ行き、河田の指揮を受けよ、我等これより鹿島に至り、諸隊長と軍議し、中村に帰りて後事を計らん」これを受けた岡部は鶴谷村(南相馬市原町区鶴谷)に馬を馳せて、従者を四方に走らせて秊胤の行方を捜した。また中村に向った佐藤、富田は鹿島まで来たとき、すでに仙台兵たちは陣所を引き払って中村城下に退いており、残っていたのは中村藩兵のみであった。佐藤、富田は隊長たちと面会し、降伏がなったことを告げ、謀議したのち中村城に帰還した。しかし、中村城下にはすでに仙台藩兵の姿は無く、立ち去ったあとであった。両名はこれを怪しんで、藩士に問うと、3日の夜半、城内の兵具倉で失火があり、貯蔵の火薬が爆発。その音に驚いた仙台藩兵は、中村藩側に謀略があると疑い、慌てて駒ヶ嶺まで退いたという。一方、仙台藩側の文書に依れば、4日、相馬家の背反が明らかになったため総軍退却を命じたという。

 仙台藩兵は駒ヶ嶺まで退くと、兵を整え、黒木まで進軍してきているという。急ぎ官軍を入れるべしと、使いを総督府に残っていた岡部正蔵を通じて四條隆謌総督に歎願した。一方、秊胤は近臣四、五人とともに中村城を逃れて南行しており、5日夕刻、鶴谷村まで迎えに来ていた岡部と合流。さらに小高村に至り、河田率いる鳥取藩の陣所に入ったのち、菩提寺・洞雲寺(現同慶寺)に入った。一方、老公・充胤も中村を脱して深野村に宿しており、洞雲寺に入って命を待った。

 そして夜、総督府御使番・太田桂太郎が洞雲寺を訪れ、秊胤と面会。秊胤は、「只今御軍門に降伏し、及び昨日謝罪の願書、ならびに重臣らをして哀訴せしむる所を総督府へ深く執奏せられんこと」を請うた。翌6日、総督府は秊胤の降伏を受け入れ、秊胤には洞雲寺にて謹慎を命じ、明日7日に中村城へ入城することとした。

右ハ致悔悟、軍門ニ参上、歎願御聞届ニ相成候、追テ御沙汰可有之ニ付、菩提所ニ謹慎罷有候様御沙汰候事、但、降伏ノ上ハ、寛大ノ御沙汰モ可有之候條、家中ノ者共動揺不致、降伏ノ実効速ニ相立、前罪ヲ償ヒ候様可致候事、また、諸軍へは、中村城は相馬家の降伏があったとはいえ、仙台藩兵が周辺に屯していることもあり、このことを心得て、入城進軍は厳戒態勢を敷くべしと通達した。

7日、総督府は徴兵隊、柳川藩兵を中村城請け取りに向かわせ、中村城下・歓喜寺へ進駐する軍勢として、柳川藩、萩藩、福岡藩、津藩、広島藩がそれぞれ担当し、中村城下入口にて諸藩整列し、城中へ入り、諸門を固めた。そして洞雲寺の秊胤を召すと、参謀の指揮に従い、かつ藩兵を仙台藩追討の嚮導として徴発した。そして7日午前七時、号砲を発し、官軍の先鋒として中村を発った中村藩兵は黒木(相馬市黒木)に布陣する仙台藩兵に向けて進軍した。中村城から北西にわずか2kmほど、仙台藩兵は黒木駅外に出て発砲した。しかし、仙台藩先鋒・安田竹之助はなぜかすでに駒ヶ嶺へ退いていて、伊達藤五郎邦成の手勢は狼狽して動かず、古内近助はぐずぐずして動かず、中村藩兵が三方から攻撃を加えたため、仙台藩兵は退却。ひとり遠藤主税のみ三小隊を率いて合戦したが、それを追った中村藩兵は伏兵の砲撃にあうが、地の利に長けた中村藩兵は隊を二分してこれを撃滅。萩藩兵、津藩兵の援軍の力も得て、仙台藩兵を国境外に追い出すことに成功した。

 午後1時、中村城に控えていた佐藤、富田の両重臣が総督・四條隆謌を出迎え、総督府は中村城に入城した。中村城は10月までの三か月にわたり総督府として使われることとなる。 8月9日、総督府は老公・充胤に隠居を命じた。秊胤はすでに謹慎を命じられており、充胤にも同様の措置を取るべきとの沙汰があったための措置である。8月10日、勅使・平松時厚が中村城に至り、諸軍をねぎらい、且つ人民を虐使することなきよう勅旨を伝えた。仙台藩勢の奥山永之進は大坪村に来襲した。中村藩勢はあらかじめ敵襲に備えてはいたものの、地形の利が悪く、少し退いて諸藩の援軍とともにふたたび進軍し、仙台藩兵を破った。8月11日、総督府は駒ヶ嶺、新地までの進撃を沙汰し、諸藩兵は山手・浜手・本道の三方向から駒ヶ嶺に迫った。そして激戦の末に午後4時、仙台藩は退却。仙台藩参政・遠藤主税、大隊長・大立月下総らが負傷するなど仙台藩兵は大敗を喫した。また、謹慎中の身であったが、秊胤は岡田監物、泉内蔵助、泉田豊後、相馬靱負、西市左衛門、佐藤勘兵衛、大浦庄右衛門の重臣連名で藩兵をして官軍の嚮導役とすることを請う一方、仙台藩には事の順逆を述べて早々に恭順の道を計るべきこと、しかし「御謝罪之道無之上」は、王命を奉じて、やむを得ず決戦あるのみとの書簡を、標葉郡受戸浜(浪江町請戸)に漂着して保護していた伊達家臣に持たせて送り届けた。

 8月12日、総督府は中村藩を各攻め口の斥候とし、別の一隊を熊本藩隊、柳川藩隊を嚮導に差し出すことを命じ、この日は駒ヶ嶺にて全軍休息となった。また、総督府は大僧都慈隆和尚に対し、中村藩を恭順に導いた功績を賞するとともに、農商撫育に尽力するよう命じた。 8月16日、仙台藩兵は駒ヶ嶺奪還を図って諸道より進軍してきた。中村藩はじめ駒ヶ嶺に宿陣の諸藩兵が応じて、熊本藩兵、柳川藩兵が援軍に駆けつけたが、もと仙台藩領の南境という要衝の地であり、仙台藩兵にとっては手に取るようにわかる地理であった。林の間から銃撃を受けた中村藩兵は苦戦し、佐藤数衛、菅野藤司、高橋清、阿部捨次郎、荒嘉右衛門の五人が負傷した。岩国藩兵が間道を通って背後より仙台藩兵を突いたことから仙台藩兵は壊走したが、20日夜明けと同時に仙台藩兵は大挙して駒ヶ嶺に押し寄せ、各藩との間で大戦となった。

 仙台藩兵には旧幕府軍の敗残兵も加わっており、中村城へ迫るほどの勢いを見せていた。中村藩は各藩の番兵と連携して防ぐが、仙台藩から飛来する弾丸は雨の如く降り注ぎ、苦戦を余儀なくされていた。午前8時、各藩の援軍がようやく到着し、各口で激戦となり、砲声は天に轟いた。鈴木直記、茂庭三郎率いる仙台藩兵は海岸沿いの今泉村(相馬郡新地町今泉)にまで攻め寄せてきたため、中村藩兵は津藩兵、大洲藩兵と合流して防戦につとめたが、仙台藩兵は多く、今泉台場まで退いて砲撃、午後4時ごろ、街道沿いの仙台藩兵が瓦解したため、萩藩兵が今泉村の援軍に駆けつけて背後を突き、ようやく仙台藩兵は兵を退いたが、中村藩では佐藤勇助、佐藤吉五郎、渡部勇助、夫卒幸吉助次郎の五人が戦死、小隊長・村田与左衛門以下、二十六人の重軽傷者を出した。

 8月21日、謹慎を命じられていた相馬秊胤は中村藩兵の連日の奮戦の功績が認められ、謹慎御免の沙汰を受けた。8月23日、熊本藩陣営に伊達藤五郎邦成の家臣・鷲尾右源太が出頭した。彼は去る8月14日、今泉村に布陣していた中村藩重臣・多々部藤蔵直信のもとに届ける恭順周旋の書状を農民二人(亘理郡山下村の長左衛門、彦左衛門)に託したが、彼らは誤って中村藩ではなく熊本藩の陣所にこの書状を届けてしまった。彼らは多々部に面会を請うが、もちろん多々部がいるはずもなく、熊本藩は事の次第を総督府に届け出た。総督府は鷲尾の出頭を指示したため、熊本藩は農夫一人を留め置き、一人を鷲尾のもとに戻して自ら出頭するよう命じた。しかし、仙台藩と官軍との戦闘が激しくなったため鷲尾は動けず、ようやく23日、今泉村の熊本藩陣営に出頭した次第だった。彼の訴えた要旨は、仙台藩は藩士による奥羽鎮撫総督府参謀・世良修蔵殺害は、会津藩作成の偽書を信じた故によるもので、初めに真偽を確認せずに大義を誤ったことは今更ながら慙愧恐懼に絶えざることであり、伝を頼って中村藩に書簡を送ったが、具体的な知人も無いことから農夫に手紙を託し、図らずも熊本藩陣に届けてしまった次第であり、仙台藩の情実を察せられ、藩の進退は命のままに従う旨を陳述した。これを受けた津田山三郎は周旋を約束した。
 
 8月26日、仙台湾に旧幕府海軍の軍艦七隻が集結した。彼らは官軍に屈することなく、新天地北海道に渡り、新たな共和国を創ることを理想に、仙台藩など官軍に抗する藩を味方につけるべく仙台に上陸した榎本釜次郎は、たびたび仙台城に登城し、「味方数度敗軍に及ぶといえども、あえて屈すべからず、いよいよ仙台落城に及びなば、闔藩の士を合一し、我が軍艦に航し、函館に拠り、機会を待ち再挙すべし」と、戦闘継続を訴えた。

・艦名  艦将

 回天  甲賀源吾秀虎

 開陽  榎本釜次郎武揚(艦隊旗艦)

 長鯨  柴 誠一

 長碕  古川節蔵

 蟠龍  松岡政吉

 千代田 輸送船
 
 神速  輸送船

しかし、すでにこのとき藩主・伊達慶邦は降伏帰順の意が固まっており、うなずくことは無かった。そして9月4日、抗戦派の仙台藩執政らは慶邦、宗基父子の出兵を強行しようとしたため、慶邦らは断然決意し、「進軍は成り難し」という厳命を藩士一同に下した。これにより、もはやこれまでと仙台藩を味方にすることをあきらめた旧幕府軍は列藩同盟の瓦解の中で行き場を失っていた旧幕府軍の遊撃隊(隊長・人見勝太郎)、陸軍隊(春日左衛門)、新撰組(土方歳三)、彰義隊(澁澤精一郎)、大砲隊(関広右衛門)、伝習隊(滝川充太郎)、神木隊(酒井良輔)、歩兵隊(本多幸七郎)、聯隊(松岡四郎次郎)と合流し、軍艦をまとめて10月12日、仙台を出帆して北海道へ向った。しかし、藩主の厳命が届かなかったのか、8月27日、仙台藩兵は相馬領の北西端、川平に攻め込んできた。放火を繰り返して侵攻してきたため、猪狩勘右衛門、小島万之助二小隊を派遣して防ぐが、攻め立てられて草野村(相馬郡飯舘村草野)まで退いた。

 翌8月28日、午前八時、仙台藩兵は玉野村(相馬市玉野)に侵攻してきた。これに南の二枚橋に布陣中の半野嘉左衛門が一小隊を率いて援軍に駆けつけ、本道に布陣して仙台藩兵に備える一方、小島万之助、鳶惣右衛門、猪狩勘右衛門の各隊が展開し、夕刻までの激戦でついに撃退した。8月29日、慶邦は氏家兵庫、石田正親らと計り、帰順謝罪の方針を決定。氏家兵庫(執政)、堀省治(近習目付)を熊本藩陣営に遣わして、熊本藩隊長の津田山三郎・米田虎之助、中村藩隊長・岡部正蔵、多田部藤蔵に恭順の旨を奉った。ここで氏家らは津田、米田らに尋問を受けるが、うまく切り抜けることに成功。降伏するにあたっては「邪論ノ有司ヲ掃除シ、正論ノ重役ヲ抜擢アッテ可然」と告げられ、慶邦は和平派の重臣、遠藤文七郎・後藤孫兵衛を執政に抜擢し、蟄居を命じていた大條孫三郎を召して降伏について専務させた。戦争を主導した奉行の但木土佐・坂永力らは失脚することになる。
しかし、9月9日になっても仙台藩から総督府に降伏の文書は届くことなく、総督府は相馬藩境の旗巻峠を攻める決定を下し、同夜、諸藩兵を出陣させた。旗巻峠には仙台藩隊の高泉左覚、村上軍之丞、細谷十太夫各隊が展開しており、9月10日、仙台藩兵と官軍は大激戦となった。旗巻峠の戦いである。中村藩も命を奉じて各藩隊とともに黒木村に整列。旗巻峠を南北より挟み撃ちにする形で、一小隊は萩藩、館林藩隊とともに北の椎木村から、一小隊は南の鳥取藩隊とともに小野口より潜行して近づき、途中の防塁に籠もる仙台藩隊に奇襲をかけて蹴散らすと、椎木隊、小野口隊、本道隊の三方から旗巻峠に突撃し、激戦の末に仙台藩隊は自陣を自焼して退いた。

 12日、仙台藩主・伊達慶邦はようやく各口に展開していた藩兵を退く命を発したため、総督府も各藩隊に進軍の中止を通達。9月15日、伊達慶邦は伊達将監、石母田但馬、遠藤文七郎を宇多郡今田村(相馬市今田)に派遣。嘆願状を総督府に提出し、降伏を請うた。総督府からは御使番の榊原仙蔵と熊本藩・木村十左衛門が今田村に出張し、嘆願書を受け取った。

 16日、総督府参謀・河田佐久馬は伊達将監、遠藤文七郎、桜田春三郎の三名を今泉村鳥取藩軍陣に招き入れると、降伏謝罪の嘆願書を受け取った上は、慶邦・宗敦父子は自ら亘理館まで出頭し、降伏の礼を尽くすべきことを命じた。また、降伏の上は、寛大の沙汰もあるべきことにつき、「家中ノ者共心得違無之様」心することが付された。実は15日、藩校・養賢堂で戦備を整えていた交戦派の額兵隊は、隊長の星恂太郎忠狂が降伏論に反対して、取締の参政・葦名靱負の引き止めにもかかわらず出兵を強行。謹慎していた藩侯・伊達慶邦自ら槻木村(柴田郡柴田町槻木)まで馬を駆って兵を制する一幕があった。星恂太郎はこののち配下二百五十名とともに榎本艦隊に乗って北海道に渡って函館戦争に参戦している。

 20日、仙台藩降伏につき、総督府は先鋒隊(広島藩全隊、柳川藩全隊、福岡藩一中隊、鳥取藩二中隊、宇和島藩一中隊、大洲藩全隊、萩藩二中隊、館林藩全隊、熊本藩一中隊)を亘理まで進めた。中村藩は旗巻峠に百人、椎木に百人、天明に五十人、原釜に百人、長老内に一小隊をそれぞれ展開して不慮の事故に備えた。


 22日、総督府は仙台藩世子・伊達宗敦を中村城に召し、仙台藩額兵隊の暴動について詰問した。また、先鋒隊は亘理館に入ると、参謀は諸藩隊に仙台藩所有の鉄砲弾薬の押収を命じ、各藩隊にそれぞれ管理を命じた。そして24日、伊達慶邦は亘理館に入り、総督府参謀より所領ならびに兵器の没収が伝えられ、当座として藩老臣を民生に当たらせるよう命じた。

 こうして仙台藩が降伏したことにより、仙台城下に謹慎していた本多能登守忠紀(泉藩主)、内藤長寿麿政養(湯長谷藩)、安藤鶴翁信正(旧老中・平藩老公)が降伏謝罪嘆願書を提出。続けて板倉甲斐守勝達(福島藩主)、織田兵部大輔信敏(天童藩主)が降伏、仙台藩支藩の田村右京大夫邦栄(一関藩主)も仙台藩重臣・石母田但馬を通じて投降した。

 また、去る9月5日には仙台と並ぶ列藩同盟の盟主・米沢藩が降伏しており、越後国長岡藩主・牧野駿河守忠訓も米沢の総督府に重臣・三島宗右衛門を遣わして降伏謝罪を述べた。そして23日、徹底抗戦の末にさまざまな悲劇を残しつつ会津藩も降伏。白河口総督府参謀の伊地知竜右衛門正治・板垣退助正形が総督府に報告の手紙を送った。こうして会津藩を救うために結ばれた奥羽越列藩同盟は名実ともに瓦解。幕末の奥州に吹き荒れた戊辰戦争も収束を迎えた。


  戊辰戦争における東北最大の戦い。決戦駒ヶ嶺城歴史ドキュメント
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■決戦駒ヶ嶺城における宮内家 家臣達の活躍■

■ 駒ヶ嶺城 概要 ■

所在地 福島県相馬郡新地町駒ヶ嶺字舘。 駒ヶ嶺城は、戦国時代に相馬氏が築き、のち伊達氏により修築された。当初相馬は駒ヶ嶺の藤崎に舘を築いたが、間もなく、新地城とほぼ同時に新しく城を築いたとされている。JR常磐線駒ヶ嶺駅の西方約1キロ地点の丘陵上にある。「仙台領古城書」には、『山、駒ヶ嶺城東西24間、南北52間』とあり、「仙台古城書立之覚」には、面積1,248坪とある。城郭の南西に白鳥神社があり、ここから北東の丘陵一帯に築かれている。本丸跡は、東西約60メートルに、南北約30メートルの平場となっている。

東と西の門跡には枡形の土塁が残っており、また本丸より一段低く西舘、南に二の舘、東に三の舘の跡があり、その周囲を外濠がめぐらされている。「東奥中村記」に『宇多郡駒ヶ嶺ニハ元来城無シ、新地便宜ノ為、藤崎村ニ屋敷構ヘシテ原如雪ヲ置レシガ城無クテハ始終如何成リトテ、盛胤の御代切開レテ城トハ成リヌ』とある。また、「奥相茶話記」には『駒ヶ嶺元来は城なし 新地の繋に駒ヶ嶺の下藤崎村に原如雪を屋敷構にて指置る 而れども城無にては新地の繋に難成とて盛胤駒ヶ嶺の山を切り平げて城になし玉ふ』とあり、相馬盛胤は当初藤崎に屋敷をつくって重臣の原如雪をおいたが堅固な城が必要となり、本格的な城を築いたものと考えられている。

最初の城代は、原如雪の嫡子藤崎摂津である。原の姓は、藤崎を賜ったことで藤崎となった。相馬盛胤は、享禄2年(1529)に生れ、天正6年(1578)に隠居し、慶長6年(1601)に死去している。伊達との争いが最も激しかったのは、永禄から天正にかけてであり、駒ヶ嶺の築城は、この間に行われたものとされている。天正17年5月に伊達政宗の進攻によって落城、政宗は黒木備前を城代とした。このあと伊達忠宗、桜田玄蕃、新田下総、富塚長門と代わった。そして江戸中期である享甫3年(1718)から、伊達一族の「宮内主税」が城代となり仙台藩駒ヶ嶺・新地など1,400石(後に2.000石)を領し、明治維新まで続いた。

■伊達一族「宮内主税」■

宮内家は、伊達家臣団の中でも、晴宗(正宗の父)の代から上席を占める一族で、祖先は「遠藤長門守盛栄」である。天正九年、「遠藤修理亮重清」の代において、伊達晴宗より謀反を未然に防いだ功績から、晴宗の一字を賜り、苗字を宮内と改め「宮内中勢太輔宗忠」と称すという記述がある。また、遠藤家は伊達一族家臣団に名があり、戦国武将として奥羽全土の合戦に参戦し、古くから伊達家に仕える譜代であったといえる。江戸中期、宮内殷幡定清、宮内長十郎徳清の代より駒ヶ嶺・新地領を拝領する。幕末慶応四年の戊辰の役では、駒ヶ嶺一帯は仙台藩(旧幕軍・奥羽越列藩同盟)の藩境防衛の前線基地となり、駒ヶ嶺城(宮内大蔵信清、飛弾壱岐廣清の代)に本営が置かれた。七月十三日に平城を落とした官軍は相馬中村まで迫った。八月七日、駒ヶ嶺口の戦いが始まり、中村藩が官軍に寝返ったため、仙台藩は苦戦、城下は戦禍に巻き込まれた。八月十一日には駒ヶ嶺城が攻撃により炎上、二十日に残った仙台藩松山隊が海岸で戦死して戦いは終結となった。戦死者は旧幕府軍二千人、官軍は四千三百人であった。現在は城跡が残るだけである。

■宮内家次席家老 留守居役 國井玄流■

宮内家に代々仕える國井家の過去帳には、享甫三年に宮内家の家臣として一族従い、栗原郡より駒ヶ嶺城下に移りしとある。初代玄長は、栗原郡で宮内家に家臣として召抱えられているが、二代國井玄流(三代も玄流)は、駒ヶ嶺領宮内家(1.400石)において、医道俸薬の職務と、次席家老・留守居役以上の地位を与えられた。相馬駒ヶ嶺に移った時は、すでに國井玄長は亡くなっている。玄長天和二年没とある。また、玄長の妻も、一緒に自害している。五代目玄適の妻の旧姓は、冨塚であり、旧駒ヶ嶺城代の富塚家の姫を嫁に迎えている。玄流(二代目)から、十代目にあたる菊弥までが、相馬郡駒ヶ嶺領に居館した。宮内家の重臣は、國井、阿部、平間の三家が家老職を勤めていたが、阿部家は、旧駒ヶ嶺城代の富塚氏の家臣であった。記録では、冨塚氏追放後に宮内家の家臣になると記されている。

國井家は、代々藩医(御殿医)を継ぎ、次男や三男も奉行職や剣術指南などの要職を仰せつかり、宮内家の譜代家臣として戊辰の役(明治維新)まで駒ヶ嶺領の城内に居住した。三代國井玄流(享保廿年死去)のあとを、三適(宝暦元年死去)、玄適(寛政弐年死去)、道適(享和弐年死去)、休庭(文久弐年死去)、秀閑(明治廿五年死去)、秀栄、そして菊弥と、長男が医道(藩医)と家督を継いでいる。國井休庭は藩医学校で学び天保十二年六月京都学問所にて、正三位医道の免状を賜る。八代の國井秀閑も藩医学校で学び、家老格に列せられ宮内家から土地・山林(知行)を賜る。秀栄の代で年号は明治と改まり明治元年菊弥が誕生、翌明治二年に家禄俸還と記せられている。江戸時代は、伊達騒動などの事件もあったが、駒ヶ嶺領は比較的に平穏であったと思われる。領主宮内は領民、村人達にも慕われていた。しかし、鳥羽伏見からはじまった戊辰戦争の時は、旧幕府軍(仙台藩・奥羽列藩同盟)の前線基地(駒ヶ嶺の館が本陣)となり、同年八月十一日、官軍方の攻撃によって駒ヶ嶺城は炎上し、歴史の幕を閉じるのである。國井家の屋敷も戦火で焼失したとあるが、宮内、國井の家族、妻子達は、仙台城下の小田原金剛院町の本庄忠輔長孝(仙台藩大番組)の屋敷へ避難しており、明治元年、本庄方にて國井菊弥が誕生している。尚、國井家は明治廿三年に神祭(神道)に改ムという記述があり國井家代々の墓は相馬の霊園にあるが、記録は法輪寺に残されている。

■戊辰戦争における、奥羽列藩同盟の最後の激戦地■

仙台藩に乗り込み、会津討伐を要請する官軍の参謀「世良修蔵」は、ただ官軍という立場だけで、藩内で悪徳の限りを行っていた。奥羽諸藩の君主の悪口や非礼な態度は家臣たちの我慢の限界を超えていた。仙台藩士による世良修蔵の暗殺が、まさに戊辰戦争のはじまりであった。1868年(慶応4)閏(うるう)4月20日早暁、福島城下金沢屋に宿泊中の世良を仙台・福島両藩士が襲撃したのである。捕らわれた世良は、須川河原で斬(き)られた。

その後、会津や三春、白川口など奥羽一帯に官軍が攻め込んでくることになる。この戊辰の役では新地・駒ヶ嶺一帯は仙台藩(旧幕軍・奥羽越列藩同盟)の前線基地となり、駒ヶ嶺城(城代 宮内飛弾壱岐廣清)に本陣が置かれた。仙台藩は、伊達藤五郎、遠藤主税、佐藤宮内、鮎貝太郎平そして細谷十太郎の軍勢を差向けた。総督は石田正親である。戦況としては、会津藩の領内にも官軍が攻め入り、すでに白河城撤退、二本松や平城も落城、いよいよ仙台藩の領地での合戦をむかえていた。宮内の守備する駒ヶ嶺城にも大砲が置かれ、仙台藩主力部隊は相馬藩境と旗巻峠に陣を構えた。ところが大変だことが起った。七月下旬あたりから、相馬に不穏な動きがあるという情報が入ってきた。藩境警備を担当していた宮内家は、相馬藩にも親しい知人が多く、「相馬は密かに官軍と会合してるらしいので、ご油断召されぬほうが…。」そんな話も入ってきた。そしてついに、八月二日に相馬中村藩が降伏し、官軍側に寝返ったことが判明した。

相馬中村藩の銃口は仙台藩に向けられた。中村領の戦闘では大苦戦であった。敵の夜襲で大混乱となり、部隊間の連絡も途絶えて敗走した。仙台藩兵や旧幕軍は、駒ヶ嶺まで後退して戦力の立て直しをはかった。相馬の寝返りを知った重臣、家臣達は憎き相馬と敵意を抱き戦意は燃え上がった!仙台領内には早馬が走り、続々と駒ヶ嶺に援軍を向けた。伊達慶邦公は強い口調で「仙台領内に官賊を一兵たりとも入れてはならぬ、正宗公の威信にかけて相馬を攻め落とし、薩長軍を殲滅せよ!」といい放ったと言う。相馬領との国境、駒ヶ嶺と旗巻峠が落ちれば仙台まで五十キロ足らずの距離である。集まった武将達は、「相馬を蹴散らして見せようぞ!」復讐の意気に燃えた。中でも援軍として布陣した佐藤宮内(伊具群小斎領主)は、歴戦の将で、宮内とも隣領の好であった。しかし現実は、三春や秋田、そして相馬の裏切で奥羽越列藩同盟は崩壊していた。会津、桑名、南部も官軍にはもはや劣勢であった。しかし、仙台藩はまったく孤立していたわけではなかった。旧幕府海軍副総裁の榎本武揚が率いる艦隊が品川沖で健在であった。榎本武揚に、仙台藩の重臣玉虫左太夫は密使をつかわしていた。榎本には、奥州と東北の旧幕府軍を集結させて反撃に転じる戦略構想があった。榎本艦隊は、開陽、回天、長鯨、千代田他六隻の軍艦に武器弾薬、兵員を満載し、密かに仙台松島湾に向けて出航準備を進めていた。艦隊が仙台沖に来れば、艦砲射撃で官軍の進撃を阻止できる。さらに、逆上陸して背後から官軍を攻め、挟み撃ちで敵を殲滅できる。その為にも駒ヶ嶺と旗巻峠はなんとしても死守しなければならなかった。駒ヶ嶺城の宮内の館では夜通し軍議、作戦会議が行われた。

八月五日、駒ヶ嶺一帯は、仙台藩三十四小隊二千名の軍団が固めた。駒ヶ嶺城宮内家の守備隊は二百八十名程である。その内の半数は、道場の門弟、農民、人足、漁師出身の義勇兵であった。彼等は、日頃の恩返しと領主に報いるために志願していた。國井秀閑も藩医であったが、領民の為に療養所を開設し、村人の健康管理や治療なども行っていたからである。義勇兵の訓練は、火縄鉄砲を主に一ヵ月前から行っており、宮内の軍が最も士気が高かった。また、周辺の地理にも詳しかったので、物見、斥候に、敵情視察の任務が与えられていたが、いつも官軍と小競り合いをして帰還していた。そして、八月七日、駒ヶ嶺口の戦いが始まり、まもなく城下全土が戦禍に巻き込まれた。官軍の先陣は中村藩(相馬)と有馬藩である。仙台藩は旧式鉄砲、官軍は最新の洋式銃とアームストロング砲の戦いであったが、駒ヶ嶺の戦闘では官軍の損害は幕府軍を上回っていた。さらにこの辺一帯は、湿地帯で長雨続き、官軍は腰まで沼に浸かって動くことも容易でなかった等の記録が残っている。宮内の家臣達は、仙台藩の兵士とともに相馬領との藩境防衛線で初戦よく奮戦するが、官軍との武器・兵器の差ははなはだしく(仙台藩の火縄銃は雨で使用不可)仙台藩は多くの戦死者を出して撤退を余儀なくされた。宮内の守備兵力は総勢二百名、家臣達は、四隊に分かれて城下の要所を防衛して奮戦したが、官軍の新式銃の正確な狙い撃ちで、多くの兵が狙撃されて負傷した。ただ、城に篭っていても砲弾の餌食になるだけなので、官軍の小隊を見つけて待ち伏せや、奇襲を仕掛けていった。中でも宮内家の家老阿部豊三郎、次席平間貞治、副隊長菅原機一郎、副隊長八島啓之助らが率いる駒ヶ嶺城守備隊は、城外に打って出て、二手に分かれて官軍の砲兵隊に抜刀斬り込み、大砲と弾薬を奪って反撃した。しかし、雨天で火縄銃が使えなくなると官軍の歩兵に包囲されて、次々と敵の新式銃に狙い撃ちされ、負傷者続出、やむなく城内に退却した。

すでに、村々では火の手が上がり、城にも砲弾が降り注いだ。参謀の遠藤主税も膝を撃ち抜かれて重症を負った。駒ヶ嶺の館周辺では、両軍抜刀して斬り合いになっていたが、接近戦になれば宮内の家臣達は圧倒的な強さで官軍を蹴散らした。國井秀栄の従弟、國井文吉(剣術指南役)は、日下文六、寺島慶蔵ら門弟二十数人を率いて敵の砲兵陣地に奇襲攻撃をかけ、銃砲を奪ってきた。また、國井秀閑の末弟、國井健蔵も山田文左エ門、山田俵七らと切り込み隊を編成し、館の外廊を死守、城に近づく官軍に鉄砲、火炎弾で撃退した。また、城郭内部を知り尽していた健蔵は、毎夜のように夜襲を仕掛けて、敵の前哨を斬り倒した。新影流の免許皆伝、居合の達人でもあった。國井健蔵は洋式軍装で、黒に銀の刺繍の陣羽織は一際目立ち、背中には國井家「隅切り角に抱き沢瀉」の家紋が大きく染め抜かれていた。仙台藩には、星恂太郎(ほしじゅんたろう)率いる西洋式軍隊「額兵隊」があるが、健蔵もその額兵隊を率いる隊長「星恂太郎」とは、藩校で学んだ仲でお互いよく知っていた。戦闘においては動き易い洋式軍服を星から入手して戦ったのである。( 星恂太郎:天保十一年〜明治九年没 身分役職: 仙台藩士、洋式軍隊額兵隊隊長. 優秀な能力を持ちながらそれが生かされることなく、歴史から消えていった悲劇の英雄。仙台藩降伏後は榎本武揚とともに函館五稜郭に渡る)

また、駒ヶ嶺後方には野戦病院が設置され、國井秀閑、秀栄親子も、藩医として戦火の中、仙台藩や幕軍の負傷兵の治療にあたっていた。秀栄は、藩校養賢堂で学び武術や軍略にもたけており、戦況の事も気になってたが、運び込まれる負傷者でこちらも戦場さながらであった。また、仙台藩の藩医学校の医師や門弟達も応援に来ていた。しかし負傷者のほとんどが、砲撃で手足を吹き飛ばされた重傷者ばかりで、仙台城下の病院へ搬送途中に多くの兵が亡くなった。秀栄は、近代戦における兵器の恐ろしさと威力を知るわけであるが、後に帝国陸軍の軍医として日清戦争に従軍したときに、駒ヶ嶺戦争の経験は、陸軍野戦病院構想で多いに役立つことになる。

仙台城(青葉城)


■仙台藩の敗因は、相馬中村の裏切りと長雨続きの天候■

旧幕府軍(仙台藩)の敗因は、もともと奥羽列藩同盟であった相馬藩の裏切りにより、前線を突破されたことにある。昨日まで味方だった相馬中村藩の部隊が、全て敵側に廻ったわけである。相馬口駒ケ嶺付近では、激戦となったが、仙台藩の兵は各隊がその場の目先で戦うことを余儀なくされ、藩重臣達は前線の戦況を掌握できなかった。さらに戦闘期間ほとんど雨続きの天候で、火縄が湿って仙台藩の旧式鉄砲(火縄銃)が使えない状況にあった。最後まで戦ったのは仙台藩の松山隊と宮内指揮下の兵である。松山隊は、初め仙台湾の警備に当たり、塩釜、松島、石巻で艦船の出入りを監視していたが、七月初旬になると、磐城方面応援のために二小隊が駒ヶ嶺に派遣され、八月には松山隊全軍が駒ヶ嶺城の援軍として相馬口に出動を命ぜられた。駒ヶ嶺城は十一日には奮戦空しく落城となった。その時の官軍の主力は久留米藩と中村藩であった。仙台藩は八月十六日、二十日の二度にわたり防衛の要衝、駒ヶ嶺城の奪回を図るが、成らず。二十日は駒ヶ嶺で最後の総攻撃を敢行、旗巻峠からも鮎貝、細谷の援軍が出動した。細谷の部隊は峠を駆け下り、官軍の側面を突く手はずであったが、途中で官軍(久留米藩日新隊他)の待ち伏せに遭遇、鉄砲隊の一斉射撃を浴びて攻撃は失敗に終わり、多くの戦死者を出した。海岸浜通りの伊達一門茂庭三郎の銃砲隊も壊滅状態であった。一方秀栄の従弟、國井文吉は、仙台から援軍として駆けつけた旧幕府陸軍の春日左衛門の部隊と駒ヶ嶺城奪還のため突撃隊を指揮した。仙台藩の援軍は、洋式スナイドル銃装備をしていた。いままでの火縄銃の射程100mに対してスナイドル銃は600mの射程があり、狙いは正確である。ようやく官軍の火器に対抗できるようになっや。國井文吉は地形を熟知しており裏山から敵陣に迫り突撃した。鉄砲隊の一斉射撃で警戒中の官軍を倒し、抜刀して斬り込んだ!番所を攻略して館跡まで迫ったが、兵の消耗が激しく、ついには後続部隊が無いまま官軍に囲まれて戦死している。

八月十日の段階では、宮内以下残った家臣達は、弾薬が尽きるまで駒ヶ嶺城から、砲撃を続けていた。城は高台にあり、官軍が包囲していた。海岸方面は仙台藩の佐藤宮内(伊具群小斎領主)の部隊が敵を押し返して奮戦していた。翌十一日の未明に官軍は城を目掛けて総攻撃をかけてきた。またしても主力は久留米藩と中村藩である。官軍の砲弾は火炎弾なので、着弾と同時に燃え上がる。昼前には集中砲火を浴びて城は炎上した。城主宮内以下、駒ケ嶺守備隊は、城が炎に包まれる直前に、裏手の林を抜けて脱出した。國井健蔵指揮下の数人の遊撃部隊は、旗巻峠に陣を構える鮎貝、細谷十太夫(後の鴉組)の部隊と合流した。城主の宮内と阿部、平間は、手傷を負っていたが、仙台藩後方指揮所まで撤退することができた。その後、一ヶ月近く旗巻峠に陣を置く細谷の鴉組は、奇襲攻撃で官軍を悩ませたが、兵力消耗も激しく、徐々に仙台藩からの補給も援軍も途絶えてしまった。駒ヶ嶺の合戦は、最終的に旗巻峠で敗戦となり、守備隊の生き残り國井健蔵も戦闘中に行方不明になっている。ただ、健蔵については、旗巻峠の戦闘の後に、星恂太郎が率いる額兵隊や土方歳三ら新撰組、徹底抗戦を唱える旧幕軍と合流し、榎本艦隊の輸送船に乗船、星恂太郎らと函館に渡ったのではないかとも伝えられている。しかし、五稜郭の戦死者名簿の中に、國井健蔵の名前は記されていない。この、駒ヶ嶺戦争においては、仙台藩兵一千三百人が戦死し、駒ヶ嶺守備隊も大半が負傷・戦死している。旗巻峠の敗戦の後、九月に藩は戦いを止めて、なし崩し的に恭順・開城となった。無念である。

旧幕海軍の榎本艦隊が松島沖に集結したのは、八月二十六日の事であった。榎本らは、仙台藩重臣に交戦を唱えたが、時すでに遅しであった。仙台藩内部では降伏の意向が高まり、伊達慶邦も恭順・開城を決断した。九月に入り、榎本武揚、土方歳三、大鳥圭介、星恂太郎ら旧幕府軍(陸海軍)は、仙台を後に函館に向けて出航した。その後、仙台藩は、明治政府より賊軍盟主の責任を問われ、実高100万石からすると三分の一以下の28万石に減封される。この激烈な減封により、仙台藩士たちの生活は完全に破綻し、在地で帰農する者の他、新天地を求めて北海道へ移住する者たちを大量に出すことになる。宮内家の生き残り九人の重臣達も帰農するか、仙台城下の侍町だった東一番丁で没落士族達が商売を始め、現在の中心商業地「一番町」へと繋がっている。

最後に付け加えるが、國井立人の妻である富子(旧姓松田)は、会津の出身で、戊辰戦争では会津藩でやはり官軍と戦っている。松田富子の従姉弟である松田節彦氏が家系を詳細に調べ、文献を残している。それによると富子の父が定次郎(定吉二男)、妻がミツ(会津藩士の佐竹直衛二女)である。定次郎は昭和4年7月10日没であるが、ミツは昭和19年12月没と記されている。その家系を辿ると松田定吉(明治31年12月没)、松田源太郎(寛政3年9月没)、松田小文治(天明5年5月没)、松田金八(明和3年7月没)となっている。尚、定吉の妻は榎田鶴太郎の長女駒子(大正5年1月没)とある。ちなみに、会津藩白虎隊の有賀織之助、西川勝太郎は、松田家の親戚筋であり、佐久間禎二(北海道五稜郭にて幕府軍として闘う)も同様である。松田定次郎は、歳が若く白虎隊に入隊できずに嘆いたというが、新島八重から鉄砲術を学んで、会津戦争に参加している。その後、新政府の警察官になる。




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■戊辰戦争後の國井家

明治元年九月三日に「國井菊弥」が疎開先の仙台城下金剛院(本庄宅)にて誕生する。父、國井秀栄は、戦後藩医病院に勤務するが、駒ヶ嶺村で診療所を開業、その後は大日本帝国陸軍の軍医となり、明治廿八年日清戦争の功績おいて勳八等を賜り、小松宮殿下より慰労金を賜る。同年日本赤十字病院役員に列せられる。また、國井菊弥は、藩医学校(仙台藩で文化12年に創設された諸藩中最古の医学校。我が国で最初に西洋医学科を設置し、正規に医学を教授)を卒業し、帝国陸軍軍医となる。明治参拾八年に日露戦争の功績により勳七等を賜る。その後、上級軍医(少佐)として従軍し樺太の地(陸軍豊原病院)で大正15年に病死している。菊弥は、葉山ヤス(旧仙台藩/葉山家の出)と結婚して七人の子(立人、マサイ、ヤヨイ、正巳、キクヨ、忠重、幸江)に恵まれている。長男の國井立人(明治廿六年生)が福島から上京して医師(慈恵医大)となり東京向島で病院を開業、下町の赤髭先生と呼ばれ地域医療に貢献した。立人は、同郷(仙台藩)の瑛(テル)と結婚するが長男孝泰を生んでまもなく瑛は亡くなってしまう。その後、松田定次郎(旧会津藩松平家家臣)の娘である、松田トミ(富子)と結婚する。孝泰は後妻の富子に育てられ、慈恵医大に進学する。立人には七人の子供(孝泰、孝、和子、芳子、寿子、公子、久美子)がいるが、長男の孝泰(立人と瑛の間に生まれた子)は、廿歳で福島に帰省していた時、海で溺れて死亡している。現在の國井家筆頭は、次男であった(孝泰の弟)「國井 孝」と國井姓で医師を継いだ長女「國井和子」になる。尚、孝には長男の立哉がいる。また、和子には長男で貞義(父)がいるが國井直系で医師は継いでいない。立人の二女で和子の妹、芳子の嫁ぎ先(砂村家)で、長男の真琴が脳外科医となり、流れを継いでいる。立人は、昭和三十六年に脳溢血で亡なる。小生 國井慶太は、その「立人」の曾孫、「和子」の孫にあたる。

宮内家の家臣名簿や國井家の家系資料(明治22年)


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■家紋の話 「沢瀉:隅切り角に抱き おもだか」

國井家の家紋 [抱きおもだか]は、日本十大紋の一つです。さらに「隅切り角」は、お役目や職を意味するものです。オモダカは池や沢、田んぼなどに自生するクワイに似た水草で、可憐な花を咲かせます。古くは王朝時代に貴族の車や武具の文様として用いられ、やがて家紋に転じたものと云われています。沢瀉は面高「面目が立つ」に通じるとか、葉の形が矢じりに似ている、別名「勝ち草」とも呼ばれるなどのことから、武人・武将の家紋として普及しました。毛利元就が戦に臨む時に沢瀉に蜻蛉が止まったことを吉事として用いたという故事があります。武将がこの沢潟紋を好んで用いたのは、オモダカの別名を勝ち草ともいったことから、戦陣の縁起紋としていたようです。天保改革で有名な水野越前守忠邦も家紋として用いましたが、徳川家譜代の水野家の家紋に沢瀉が使われてから、江戸時代は武家の裏紋としても起用されました。 古来より戦で勝利をもたらす植物といわれ武家には愛されてきました。また、沢瀉紋の独特の形が盾に似ているからといった説もあります。したがって、明治になってからも、平民で沢瀉の家紋を使うことは少なかったようです。実物の花は白い可憐な花を咲かせ武家のような強いイメージがないところが少し面白いです。「沢瀉」と明記していますが「沢潟」と書く地方もあります。

http://wiki.livedoor.jp/kkk9210/d/FrontPage?wiki_id=56617



  仙台藩の藩医達に影響を与えた江戸時代の医師に関する記述
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■医道を志す國井玄長・玄流、そして秀閑は、杉田玄白の弟子と伴に江戸の医療や西洋医学を学ぶ■

仙台藩医学校は渡部道可の建議により、文化12年に創設(大槻 玄沢)された諸藩中最古の医学校で、その前身は藩校の養賢堂になる。我が国で最初に西洋医学科を設置し、正規に医学を教授した医学部である。國井秀閑、秀英、そして菊弥もそこで医術を学んだ。(現在の東北大学医学部の前身)その後、菊弥は軍医となり日露戦争で勲章を賜るが、樺太に従軍して死去する。また、菊弥の妻は、葉山家の出で士族ある。菊弥の長男 國井立人は、単身上京し牛込の眼科医宅に下宿しながら、勉学して慈恵医大を卒業、大正十年に東京向島で開業医となる。そして、大正十二年九月一日に関東大震災にみまわれる。向島・浅草一帯は大火となり、多くの人が病院に運び込まれ、立人は看護婦とともに一週間不眠不休で負傷者の治療にあたった。ほとんど人が重度の火傷で、医薬品や抗生物質も不足して手当ての甲斐なく亡くなった人も多かった。ちなみに、立人の妻富子は、会津藩松平家の家臣 松田家(松田定次郎)の娘である。

國井立人 相馬帰郷記念で撮影(中村写真館)と愛用の万年筆


■大槻 玄沢■

仙台藩の藩医:大槻 玄沢(おおつき げんたく、宝暦7年9月28日(1757年11月9日) - 文政10年3月30日(1827年4月25日))は、一関藩(田村藩)出身の江戸時代後期の蘭学者。名は茂質(しげかた)、磐水と号す。『解体新書』の翻訳で有名な、杉田玄白・前野良沢の弟子。「玄沢」とは、師である二人から一文字ずつもらってつけた通り名である。

同じ郷里の医師、建部清庵に師事し、早くから医学・語学に才能を示した。後に、建部清庵と手紙のやり取りをしていた杉田玄白の私塾・天真楼に学ぶ。1788年(天明8年)、蘭学の入門書『蘭学階梯』を記したことで、蘭学界での地位を確立した。後年には、師である杉田玄白から『解体新書』の改訂を命ぜられ、『重訂解体新書』を記している。江戸に、私塾・芝蘭堂をひらき、多くの人材育成に当たった。玄沢の弟子としては、宇田川玄真、稲村三伯、橋本宗吉、山村才助の4人は特に名高く、「芝蘭堂の四天王」と呼ばれた。また、毎年芝蘭堂で「オランダ正月」と呼ばれる西洋の暦に合わせた新年会を開いており、ロシアへ漂流した大黒屋光太夫なども招待された。

玄沢以後、大槻氏からは優秀な学者が多く輩出し、「西の頼家、東の大槻家」(ちなみに、頼家は頼山陽で有名)ともいわれた。玄沢の息子に漢学者の大槻磐渓、孫に国語学者の大槻文彦がいる。養賢堂学頭の大槻平泉も同じ一族の出身である。

仙台藩の依頼でロシア船で送り返された同藩の漂流民に事情聴取した際の記録『環海異聞』なども残されている。



■杉田 玄白■

(すぎた げんぱく、享保18年9月13日(1733年10月20日) - 文化14年4月17日(1817年6月1日))は、江戸時代の蘭学医。若狭国小浜藩(福井県)医。父は杉田玄甫、母は八尾氏の娘。諱は翼(たすく)、字は子鳳、号は鷧、晩年に九幸翁。

杉田氏は近江源氏である佐々木氏の支族である真野氏の家系。後北条氏に仕えた真野信安のときに間宮姓に改め、子の長安の代に復姓。医家としては、玄白で3代目にあたる。同時代に活躍し、間宮海峡にその名を残す探検家である間宮林蔵は同族である。



経歴

福井県小浜市にある杉田玄白の銅像。公立小浜病院の正面に設置されている。江戸、牛込の小浜藩酒井家の下屋敷に生まれるが、玄白の生母は出産の際に死去している。下屋敷で育ち、元文5年(1740年)には一家で小浜へ移り、父の玄甫が江戸詰めを命じられる延享2年(1745年)まで過ごす。青年期には家業の医学修行を始め、医学は奥医の西玄哲に、漢学は本郷に開塾していた古学派の儒者宮瀬竜門に学ぶ。

宝暦2年(1752年)に小浜藩医となり、上屋敷に詰める。宝暦7年(1757年)には江戸、日本橋に開業し、町医者となる。同年7月には、江戸で本草学者の田村元雄や平賀源内らが物産会を主催。出展者には中川淳庵の名も見られ、蘭学者グループの交友はこの頃にははじまっていたと思われる。宝暦4年(1754年)には京都で山脇東洋が、処刑された罪人の腑分け(人体解剖)を実施している。国内初の人体解剖は蘭書の正確性を証明し、日本の医学界に波紋を投げかけるとともに、玄白が五臓六腑説への疑問を抱くきっかけとなる。

明和2年(1765年)には藩の奥医師となる。同年、オランダ商館長やオランダ通詞らの一行が江戸へ参府した際、玄白は源内らと一行の滞在する長崎屋を訪問。通詞の西善三郎からオランダ語学習の困難さを諭され、玄白はオランダ語習得を断念している。明和6年(1769年)には父の玄甫が死去。家督と侍医の職を継ぎ、新大橋の中屋敷へ詰める。

明和8年(1771年)、自身の回想録である『蘭学事始』によれば、中川淳庵がオランダ商館院から借りたオランダ語医学書『ターヘル・アナトミア』をもって玄白のもとを訪れる。玄白はオランダ語の本文は読めなかったものの、図版の精密な解剖図に驚き、藩に相談してこれを購入する。偶然にも長崎から同じ医学書を持ち帰った前野良沢や、中川淳庵、桂川甫周らとともに小塚原刑場(東京都荒川区南千住)で死体の腑分けを実見し、解剖図の正確さに感嘆する。玄白らは『ターヘル・アナトミア』を和訳し、安永3年(1774年)に『解体新書』として刊行するに至る。

安永5年(1776年)藩の中屋敷を出て、近隣の竹本藤兵衛(旗本、500石取)の浜町拝領屋敷500坪のうちに地借し外宅する。

晩年には回想録として『蘭学事始』を執筆し、後に福沢諭吉により公刊される。文化2年(1805年)には、11代将軍徳川家斉に拝謁し、良薬を献上している。文化4年(1807年)に家督を子の伯元に譲り隠居。


■高野長英■

高野 長英(たかの ちょうえい、文化元年5月5日(1804年6月12日) - 嘉永3年10月30日(1850年12月3日))は、江戸時代後期の医者・蘭学者である。通称は悦三郎、諱は譲(ゆずる)。号は瑞皐(ずいこう)。父は後藤実慶。養父は叔父・高野玄斎。江戸幕府の異国船打払令を批判し開国を説くが、弾圧を受け、それを見ることなく亡くなった。しかし、開国が実現した後(1898年(明治31年)7月4日)、その功績により正四位を追贈された。

・生涯

高野長英誕生の地の碑陸奥仙台藩の支藩、陸奥水沢藩の留守家の藩医出身。養父玄斎は江戸で杉田玄白に蘭法医術を学んだことから家に蘭書が多く、長英も幼いころから新しい学問を修めることに強い関心を持つようになった。文政3年(1820年)、江戸に赴き杉田伯元や吉田長淑に師事。この江戸生活で吉田長淑より才能を認められ、師の長の文字を貰い「長英」を名乗った。その後長崎にあったシーボルトの鳴滝塾で医学・蘭学を学び、その抜きん出た学力から塾頭となった。ところが文政11年(1828年)、シーボルト事件が起き、二宮敬作や高良斎など主だった弟子も捕らえられて厳しい詮議を受けた。しかし、長英は巧みに逃れることができた。まもなく豊後国日田(現在の大分県日田市)の広瀬淡窓に弟子入りしたというが、異説もある。この間、義父玄斎が亡くなり、長英は故郷から盛んに帰郷を求められるが逡巡した挙句ついに拒絶、家督を捨て、同時に武士の身分を失った。

天保元年(1830年)江戸に戻り、町医者と蘭学塾を開業した。まもなく三河田原藩重役渡辺崋山と知り合い、その能力を買われて田原藩のお雇い蘭学者として小関三英や鈴木春山とともに蘭学書の翻訳に当たった。天保3年(1832年)、紀州藩儒官遠藤勝助らによって天保の大飢饉の対策会として作られた学問サークルである尚歯会に入り、崋山らとともに中心的役割を担った。長英の『救荒二物考』などの著作はこの成果である。

天保8年(1837年)、モリソン号事件が起き、異国船打払令に基づいてアメリカ船籍のモリソン号が打ち払われた。崋山や長英はこの幕府の対応を非難し、長英は『戊戌夢物語』を著し、内輪で回覧に供した(ただし、長英の想像を超えてこの本は多くの学者の間で出回っている)。天保10年(1839年)、蛮社の獄が勃発。長英も幕政批判のかどで捕らえられ、永牢の判決が下された。牢内では服役者の医療に努め、また劣悪な牢内環境の改善なども訴えた。これらの行動と長英の親分肌の気性から、牢名主として祭り上げられるようになった。

弘化元年(1844年)6月30日、江戸の大火に乗じて脱獄。この大火自体が、長英が牢で働いていた非人栄蔵をそそのかして放火させたとの説が有力である。その後の経路は詳しくは不明ながらも逃亡生活を送り、一時江戸に入って鈴木春山に匿われて兵学書の翻訳を行うも春山が急死、その後シーボルト時代の同門・二宮敬作の案内で伊予宇和島藩主伊達宗城に庇護され、宗城の下で蘭学書の翻訳や、宇和島藩の兵備の洋式化に従事した。 このとき彼が築いた「久良砲台」(愛南町久良)は当時としては最高の技術を結集したとされる。 この生活も長く続かず、しばらくして江戸に戻って、沢三伯の偽名を使って町医者を開業した(江戸では人相書きが出回っていたため、薬品で顔を焼いて人相を変えたと言われている)。しかし嘉永3年(1850年)10月30日、江戸の青山百人町(現在の東京都港区南青山)に潜伏していたところを町奉行所に踏み込まれて捕縛された。自殺をしようとしたがその場では死なず、護送中にその傷が元で絶命した(ほかには役人に一方的に殴られ、そこで死亡したという説もある)。

江戸において勝海舟と会談した、或いは勝に匿ってもらっていたという話も伝えられている。主著に1837年のモリソン号事件の際の幕府の異国船打払令を批判した『戊戌夢物語』など。また、オランダ語文献の翻訳作業も多く行っている。


■江戸時代の医者について■

■江戸時代の医道を究めようとした國井家一族

江戸時代の医者は現代のような免許制度はなく誰でもなることができた。それだけ医術が信頼されていなかった裏返しでもある。医療水準は西洋が解剖学の分野では進んでいたが他の分野では日本と比べてもさほど大差はなく東西関係なく伝染病の前には無力だった。また、宗教的なものが原因と考える迷信も残り、病気祈祷のための神頼みや厄払い、御札を用いる習慣もあった。


○江戸時代の医者の位置づけ

 江戸時代の医者というのは不思議な身分である。武士未満庶民以上という不思議な待遇で名字帯刀が許されている。小兵衛の親友の「小川宗哲」や大治郎の剣友「横山正元」のように名字が公認され刀を挿させるのもこのような事情である。犯罪で捕まっても庶民が入る牢屋ではなく藩士や御家人、神官などが入る揚屋に入れられる。医者が剃髪するのは合戦場にいる者は全て戦闘員と見なされ従軍している医者は世俗の者ではない僧侶のように剃髪し非戦闘員ということを表示した戦国時代の名残である。蘭法医は剃髪しない。

 医者になる資格は存在せず誰でも開業できた。名字帯刀の特権だけを目当てに医者になる者もいたようだがそれほど医療が信頼されていない裏返しである。国家試験がない江戸時代でも腕のいい医者に患者が集まるのは当然で腕の悪い医者は商売としてなりたたないだろう。

 

○医者の修行

 資格なしでも開業できるが一人前の医者になるには医者に弟子入りし医学を学びし師匠に腕を認められ代診の期間を経て師匠が独立を許すと開業できる。腕が未熟な弟子を世間の送り出すと師匠の評判にも関わるだけになかなか独立を許さず、だいたい十年から二十年間修行する。医学書の多くが漢文で記されていることから漢文を学ぶ意味も込めて四書五経を修める。幕医の子弟は幕府の医学館で学ぶこともあった。小川宗哲のように長崎で西洋医学を学ぶこともある。

 

○診療科

 内科は本道と呼ばれ他の科より権威があった。他には外科、眼科、口科(歯や喉、唇を診察)、針科(針を用いる)、児科(小児科)、産婦人科などがある。小川宗哲は専門は外科だが内科の患者も診察する。

江戸時代の医学書
 

○医者の種類

 小川宗哲や村岡道歩のような開業医である町医者、品川御匙屋敷で抜け荷を行っていた奥医師の山路寿仙のような幕府に仕える幕医、藩に仕える藩医がいた。幕医は開業しないが藩医は微禄で修行を名目に開業している。また、朝廷に仕えるのは医官、儒学者を兼ねている医者は儒医と呼ばれた。儒者が医者を兼業するのは医学書も漢文で、儒者は読むことができる。儒学者だけでは生活に困るので開業医として働いた。町医者でも幕医や藩医へ取り立てられることもあり、小川や村岡の腕前を聞いた幕府や藩が召抱えることもありえる。

 

◆診察方法と医療費

 小川宗哲達がどのような診察をしたのか考えてみる。また医療費に関して健康保険制度はもちろんなく医者が自由に値段を決めた。同じ診察内容でも患者の経済力に応じて値段を決めて支払ってもらい困窮した患者からはお金を取らないのが理想だが大半の医者はきっちりと請求し貧しくて医者にかかれない者も多かった。作中の小川宗哲は支払えない患者でも分け隔てなく診察しているから評判がいい。

 

○診察方法

 血液検査や聴診器、注射器など医療機器がないなど現代とは異なるが診察方法に根本的な差はなく漢方を専門とする医者では現代も江戸時代に行われた診察方法も併用して診察している。既往症や症状を患者から聞く「問診」や患部に触れてみて患者の反応から診断する「触診」、患者の目や唇、舌など顔色や挙動を見て診断し大小便も診断の材料にする「望診」がある。「聞診」は呼吸音や動機、体臭から診断する。病気によって体臭が変わることもあるようだ。この四つが江戸時代では基本的な診察方法である。後藤艮山(1659から1732年)は既存の診察方法に「手足看法」と「候旨」、「按診」を加えた。「手足看法」は手足のむくみや腫れの有無を調べ、按診」は臓器のある部分を指で押して内臓の沈殿や動きを調べた。「候旨」は背骨の曲がりや肉付き、片寄りがないかをみた。


○薬

 現代の薬局にあたる薬種問屋で売っている薬を用いることもあるが医者が病状に合わせて処方した薬草を煎じ薬、貼り薬や塗り薬として用いる。医者以外でも簡単な怪我や病気なら昔からの言い伝えに基づき自生している薬草で治していた。

 

○診察料

 薬礼と呼ばれる薬代と併せて請求した。武士以外でも御典医、藩医に診察してもらうことはできたが高額になる。長田(永田)徳本という江戸時代初期の名医はどのような身分のものを診察しても18文しか請求せず二代将軍徳川秀忠を治療した折も18文しか受け取らなかった逸話が残っている。平均的な診察料は一分から二分、薬代が三日分で一分、七日分で二分になる。蘭法医の影響から診察料と薬料を別々に請求するようになった。

 

○往診料

 幕末では往診は初回は一分二朱、二回目から一分に加えて駕籠代が一里まで二分、二里で一両、五里で二両と高額になる。天明寛政年間(1782年から1801年)から支度料という名目で乗り物代や弟子や従者の費用などを取るようになり、大名家では金二分から三分、旗本では銭三貫文から金一分一朱、大店なら銭四貫文から五貫文を請求した。飯時に来て御供の分まで弁当代を請求するあくどい医者もいた。

 

○大名の診察

 大名の命を救うと診察料や往診料以外に終生三人扶持から五人扶持が支給されることがある。慶安三年(1650年)に大老の病を治した医者が相手側の千両というあまりにも高額な代金に受け取っていいか判断に困り将軍に伺いを出したが幕府は大老の病を治したのだからと計二千両の薬料を命じ受け取らせた話が残っている。

 

○町医者の経営

 小川宗哲が二巻不二楼・蘭の間で上方時代の話をするが儲けようと思えばいくらでも儲けられたようだ。金持ちの患者のみを診察して余分な薬も使い、徐々に快方に向かわせるように計り、何度も診察すれば簡単に金が貯まるのだろう。金持ち専門の医者は高額の謝礼が期待できない患者を即効性があるが副作用がある薬を使うことや弟子に任せることがあった。小川は金を貯めることを生きがいとしたがある時「大金があろうともいずれは死ぬ」と悟り浪費に走り金を使い果たすと上方を去り江戸で開業すると金を避けるようになった。江戸では身分に関係なく丁寧に診察するため「本所の生き神様」と土地の者に慕われていることから貧しい者からは金を請求しなかっただろう。

 

◆公立病院

 幕府が設立した病院には医学館と小石川養生所があった。

○医学館

 医学館は現代の医科大学に相当するもの。幕医を育成する目的で設立された。明和二年(1765年)に奥医師の多紀元至が医家の子弟育成を目的に私立の医学館を建てたが天明六年(1786年)に全焼し幕府は江戸中の医者に経済援助を命じ再建、寛政三年(1791年)に幕府所管となり「医学館」と改称し藩医と町医者の入学を禁じ、天保十四年(1843年)に藩医と町医者の入学を許可した。

 医学館は現代の医科大学に類似し基礎を学んだ学生が診療場に来た患者を診察し所見(現代のカルテに相当)と処方箋を書き教授に提出、教授が内容を確認し適切と判断すれば薬の調剤を命じた。医学生の教育を重んじ患者の負担は一切なく困窮した入院患者には食事を支給した。ただ、入院することは稀であった。

 

○小石川養生所

 小川笙生が目安箱に医者にかかることができない困窮者救済策を投書して享保七年(1722年)に設立された。養生所の医者は寄合医師や小普請医師と言った御役についていない幕府医であったが天保十四年(1843年)より町医者が担当するようになった。

 設立の主旨から貧窮者を対象し外来患者は最初の一年間だけ受け付けたがあまりにも多さに入院患者限定になった。費用は無料で衣服を支給することもある。死亡者には遺族に遺体を引き渡し身寄りのない者は回向院で葬られる。入院期間は当初は二十カ月までと決められていたが享保十五年(1730年)に十二カ月と短縮され期間が来れば強制的に退院させられた。時代にもよるが延べ患者数年間約250人から640人ぐらいで全快率は「天明撰要類集」によれば約四割が全快して退院し、願いを出して自らの意思で帰る者が約二割いることを加味すると約六割が回復したのだろう。

 経費は幕府の予算と拝領地からの収入で運営されている。経費の管理は同心がしていたが宝暦年間(1751から1764年)から勘定所の役人が担当し、経費が必要なる都度書類を書いて勘定所に提出して御金蔵から受け取るようになった。


  松田家・飯田家・大木家・青山家・大元家の遠祖を探る
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■國井家と縁を結ぶ家系

國井家の十世を継いだ國井菊弥は葉山ヤス(仙台藩士の娘)と結婚、七人の子供(立人、マサイ、ヤヨイ、正巳、キクヨ、忠重、幸江)に恵まれ、長男の國井立人(明治廿六年九月十八日出生)が福島から上京し、目黒の眼科医宅に下宿をしながら勉学に励み、慈恵医大へ進学して医師となる。立人は、後に松田富子(会津藩士の娘)と結婚し東京市に居住、大正末年には東京向島で病院を開業している。子供にも恵まれ、向島での病院経営も順調で、平穏な日々が続いたが、1923年(大正12年)9月1日の午前11時58分44秒に、伊豆大島、相模湾を震源として発生した直下型の大地震(関東大地震)に遭遇することになる。関東大震災では、東京都・神奈川県・千葉県・静岡県の南関東地方の広い範囲に大きな被害をもたらした。

向島は浅草と隣接する東京の下町で、一帯は焼け野原となったが、幸い國井病院は火災を免れて残っていた。立人は、町内の生き残った人達と被災者の救護、治療にあたったが、次から次と多くの負傷者が運び混まれて小さな町病院は戦場さながらであったという。立人や病院の看護婦達は、不眠不休で治療にあたり、実家への連絡もとれない状況であったという。その後も下町の地域医療に貢献し、昭和三十六年に脳溢血で亡なる。なお立人は、向島にも妻子(娘/久美子 美代子)がいた。
立人の妻である 冨子は、会津藩松平家に仕えた家臣「松田定次郎」の末娘(五女)であり、士族の出である。冨子の父松田定次郎は、戊辰の役では、まだ十三歳であった為「白虎隊」に入隊できなくて嘆いたという。定次郎の親戚筋にあたる佐久間禎二(佐久間家も代々会津松平家の家臣)は、会津藩士として榎本武揚の率いる旧幕府軍とともに函館に渡り、五稜郭で戦死。富子の祖父の松田定吉(定次郎の父)は会津藩降伏後、新政府の北方方面開拓政策で、同郷の会津藩士らと一時青森図南の開墾の為僻地に移り住んでいる。定吉や定次郎の名は、「会津藩高田幽収名簿」「会津藩北陸高田謹慎名簿」「高田藩謹慎中雑記」「渋田見縫殿助羽州出兵戦記」等に記載されている。後に新政府役人になったという記録がある。富子の両親(定次郎とミツ)は老後は上京し、新宿百人町に居住していた。

立人の最初の妻は瑛(テル)である。長男孝泰を出産して亡くなり、國井富子(旧姓/松田・会津藩)は後妻である。立人には、七人の子供がいる。富子の実子、孝、和子、芳子、寿子の他に腹違いで久美子、美代子がいる。長男の孝泰は医大生の時、駒ヶ嶺に帰郷していたとき、海難事故で死亡。その為、長女である和子(昭和二年二月/生)が國井姓で医道を継いだ。次男の孝は大学に進学しており、文学少女であった和子は、急遽医大へ進路変更、猛勉強を強いられることになった。そして、次女の芳子は砂村家に、三女の寿子は木浦家に嫁いでいる。尚、現在の國井家筆頭は、二男 孝と 長女の和子になる。そして私、慶太は、その「立人」と「冨子」の曾孫、「和子」の孫にあたる。また、孝(國井家筆頭)の長男には立哉がおり、私は甥にあたる。私の父の代より國井家直系による医道は継がれていないが、芳子の嫁ぎ先、砂村家より(長男/真琴)医者がでている。なお、國井家代々の墓は、相馬郡駒ヶ嶺の法輪寺から分骨され、現在東京都八柱霊園に置かれている。福島の旧國井家屋敷跡の所在地は相馬郡新地町駒ヶ嶺大手になる。故・國井正巳の後妻が最後の墓守であったが、平成20年に亡くなり、屋敷の門も閉められたままである。


■松田家(会津藩士)

國井立人の妻(後妻)が松田富子である。会津藩士の娘とある。確かに松田家を調べると全国的に由緒ある家系であるらしい。そして、会津藩松平家の家臣「松田家」の家紋も「丸の内に二つ引き」である。ただ、家紋としては、じつに簡単な紋である。簡単すぎて文様としての美しさがないともいわれて、あまり人気がない。しかし、引両紋は高貴で強運の紋である。引両紋の線は「竜」をあらわし、二本の場合は二匹、一本の場合は一匹の竜が点に昇ることを意味している。もともとこの紋は足利将軍家の紋であった、ということでもその強運がうなづける。 主な使用家は、 足利氏の二つ引両、新田氏の一つ引両が有名である。この二者はともに源氏の一族で引き両紋はこの両者、ゆかりの家が多く用いている。「横二つ引き」は、山名、畠山、一色、細川、最上、吉良、今川の足利一族の諸氏。「横一つ引き」は、舟橋、大場、清野の諸氏がある。「三つ引き」は、三浦半島の三浦氏が使用している。引き両は横が多いが、「竪三つ引き」を仙台の伊達氏が用いている。

なお、松田家の家紋は松田家8代頼秀の頃は「丸に二引き」を使用していたが、その後、旗印であった「二重直違い」を家紋とした。加賀前田家の時代になって「丸の内二膳箸」を使用するようになり、現在に至っている。祖母の母方の松田富子の家紋が「丸に二引」であるのは事実なので、家紋から考えられる系図としては、高岡松田家(松田弾三郎秀也流)埼玉松田家(松田右京康吉流)になる。そのいずれかの流れで、徳川幕府会津藩士「松田定吉」に繋がるのであろう。会津戦争でも生き残り、明治以後は新政府警察官になっている。

高岡松田家は、直憲の弟弾三郎秀也は高野山を下りた後医師に転身した。初め前田家に仕えて、医師松田家は金沢で開業、後に氷見、高岡へと転居した。その後七代目教之助(1743〜 1819)の代に1779年十一代加賀藩主前田治修公の世継、数千代君(後の斎敬公)が2才の時に眼病を患ったが、御殿医の力及ばず困った藩の重臣達は利家公以来の家臣の家柄である眼科医松田教之助と、小児科医金子怒謙の両医を高岡から呼び診察させた、その後、藩主の世継を治したとあって、藩内の隅々から患者が押しかけたとのことである。当時より現在迄継続して子孫も医師として活躍している。最初高岡松田家は金沢の法光寺を菩提寺としていたが、後に前田家開基の高岡瑞龍寺を菩提寺としている。

なお、松田家の詳細についてはhttp://www.incloop.com/matsuda/index.htmのHPも参考にしていただきたい。
また、松田富子の従姉弟である松田節彦氏が家系を詳細に調べ、文献を残している。それによると富子の父が定次郎(定吉二男)、妻がミツ(会津藩士の佐竹直衛二女)である。定次郎は昭和4年7月10日没であるが、ミツは昭和19年12月没と記されている。その家系を辿ると松田定吉(明治31年12月没)、松田源太郎(寛政3年9月没)、松田小文治(天明5年5月没)、松田金八(明和3年7月没)となっている。尚、定吉の妻は榎田鶴太郎の長女駒子(大正5年1月没)とある。ちなみに、会津藩白虎隊の有賀織之助、西川勝太郎は、松田家の親戚筋であり、佐久間禎二(北海道五稜郭にて幕府軍として闘い戦死)も同様である。



■もうひとつの祖先「飯田源甚衛」その昔、加藤清正公の家臣

・家紋:まるにまつかわびし

さて、私の母(貞義の妻)の苗字は飯田(祖父 飯田成美)である。成美の父は久留米の実業家・教育家の飯田幸成(朝鮮・中国農場総支配人、後の松田銀行頭取)である。その祖先は九州有馬藩士の飯田源甚衛(いいだげんべい)である。さらにその祖先は、戦国時代の武将加藤清正公の家臣「飯田覚甚衛」の家系と聞いている。実際、我が家には、「まつかわびし」の家紋がついている源甚衛の鎧箱があるが、その中には、兜、甲冑、剣術指南や砲術・弓術の免許皆伝の巻物、系図などが納まっている。また、祖先の墓石は、九州の有馬藩の殿様を奉る家臣団の中にある。ちなみに、祖父の母方は、村上水軍の末裔で大木家である。祖父の飯田成美の妻は飯田ミヨ。旧姓は青山(直参旗本青山家)。そして娘が二人いるが縁を斬っている。次女の陽子が國井家(貞義妻)に嫁いだ私の母親である。
さて、熊本城の築城に関しては、歴史的にも飯田覚甚衛の名が出てくるが、熊本城の本丸は「天守台」「平左衛門丸」「数寄屋丸」「飯田丸」「東竹の丸」「竹の丸」「西出丸」に分けることができる。飯田丸というもう一つの天守閣が有名であるが、南西隅に建つ五階建ての櫓が「飯田丸五階櫓」である。飯田丸の名称は加藤清正の重臣、飯田覚兵衛(いいだかくべえ)が守備・管理していたことから、こう呼ばれるようになったといわれている。熊本城南面防衛の要であり、櫓と塀で囲い込まれ、内部には井戸や台所、鉄砲蔵までも設けられている。西面には西櫓門を備え、出撃することも可能である。つまり飯田丸だけでも小さな城としての機能を持っているわけで、その天守閣の役目を果たすのが飯田丸の五階槽なのである。

■飯田 覚兵衛(いいだ かくべえ 、1565年(永禄8年)? - 1632年10月31日(寛永9年9月18日))

覚兵衛は、山城国、あるいは大和国の出。父は飯田直澄。幼名才八、久次郎。角兵衛。名は直景。基久、重氏ともいう。若い頃から加藤清正に仕え、森本儀太夫、庄林隼人と並んで加藤家三傑と呼ばれる重臣となった人で、合戦では槍の達人として知られる。

覚兵衛が築いた熊本城


司馬遼太郎著「おれは権限」で、七編の時代短編小説が収められている一つに「覚兵衛物語」がある。肥後加藤家の老臣、飯田覚兵衛が主人公である。八歳の頃、仲間と相撲と棒打ちをする。負けたものは終生勝った者の家来になる約束をする。その時勝った加藤清正が豊臣秀吉の家来になるが、覚兵衛も約束を守り、清正の家来となる。武勇に優れ、中でも槍術は特筆すべきものであった。
賤ヶ岳の合戦においても清正の先鋒として活躍した。後に朝鮮出兵の際には森本儀太夫と共に亀甲車なる装甲車を作り、普州城攻撃の際に一番乗りを果たしたといわれる。この功績によって豊臣秀吉から「覚」の字を与えられた。土木普請も得意とし、清正の居城となった隈本城の築城には才を発揮した。180mにもおよぶ三の丸の百間石垣などは彼の功績といわれ、「飯田丸」と郭にも名を残している。飯田丸の名は、飯田覚兵衛」が築城と守備を担当したところから由来している。今も、飯田丸には、篭城に備えて城内に掘られていた井戸が残っている。その後、名古屋城普請や江戸城普請にも奉行として参加した。清正が没後は子の加藤忠広に仕えるが、外様大名加藤家の力無しと見た幕府は、1633年将軍・徳川家光によって改易を実行。ここに豊臣恩顧から徳川外様として生き残りを図った大名家はまたも無残な最期を辿ることとなった。これには諸説があり、一説では忠広が家臣団を統率できなかったためとも、法度違反のためとも言われている。

■大木家 久留米藩海事奉行

飯田成美(祖父)の母は、旧姓「大木光代」である。祖先は水軍であったが、徳川の時代は洗切り御船船頭から藩の御用船奉行(御召船定乗役大船頭)にまで出世した。天保11年8月に大木兵太夫が八幡丸に乗り江戸や大坂に夏大豆を運搬して手柄を立てている。兵太夫は、操船術や砲術に優れていたおり、文武両道として詩歌なども残している。長男大木滝弥も文武の道に達しており、二男の遠太(後の大津遠太)は、幕末に久留米藩の洋式軍隊「日新隊」を編成した一人である。その「日新隊」の兵350人は官軍として駒ヶ嶺戦争の参加している。詳細は「久留米人物史」に掲載されている。つまり、維新では國井と飯田は敵同士ということに…。


■直参旗本の青山家と番町皿屋敷の怪談話

ついでに、記すれば、私の母方の祖母飯田ミヨ(旧姓青山)は、平成十年に他界したが、その家柄は徳川家直参旗本の青山家の家系である。いつも、「世が世なら・・・」と言っていた記憶がある。屋敷は赤坂にあったと聞く。青山氏(家)は、寛政重修諸家譜に「花山院堀川師賢(後醍醐天皇の忠臣)の子 信賢、その子 師資、其の嗣 師重、初めて青山と称す」とある。その後裔忠門のとき、近江国から三河国へ移り三河国額田郡百々村の城主となった。その忠門が松平広忠・徳川家に仕え、その子忠成は秀忠の守役を務めて徳川氏の創業に貢献した。

青山家の家紋は「葉菊」を定紋とした。南北朝時代、祖先が南朝に与して功があり、日月、菊紋の錦の御旗を賜ったという。そのとき、楠木家の旗紋もまた菊花であったことから、これと区別するために両葉を加えた。以後代々、家紋としたとされている。とはいえ、南北朝を扱った『太平記』や『梅松論』などに、日月の錦旗は活躍しても、菊文の錦旗というのはみえない。青山氏の葉菊紋のいわれも、そのままには受け取れないところが少なからずあるようだ。余談にはなるが、怪談「番町皿屋敷」の素材になった「お菊」の塚というのが平塚にあるらしい。伝承によると、お菊は平塚宿のお役人(武家)の娘で行儀見習のため、江戸の旗本青山某方に奉公していた。ある時、家来に見初められたが、菊女がなびかないため「可愛さ余って憎さ百倍」と青山家の家宝の皿を隠し、主人に菊女が紛失したと讒訴(ざんそ)した。このため菊女は主人からお手討ちをされ非業な最後だったが、後に皿は見っかったという。この事件は、元文五年(1740)2月の出来事で、後に怪談「番町皿屋敷」の素材にされたわけだが、実際親戚が集まると、いつもこの話が出てくる。 尚、青山家は、郡上と丹波に分かれるが、祖母は、郡上青山家(4万8千石)になる。

●青山家  郡上(ぐじょう)藩 菊立て柏

美濃郡上郡八幡(岐阜県郡上市)   譜代 城主  4万8000石
移封加減増履歴・元和元年→1万3000石・寛永10年→遠江掛川2万6000石・寛永12年→摂津尼崎5万石・寛永20年→4万8000石・正徳元年→信濃飯山・享保2年→丹後宮津・宝暦8年→美濃郡上
専売品&専売開始年・生糸(万延元年〜文久2年)
江戸城詰席・雁之間 子爵 
上屋敷・日比谷御門内(安永)→水道橋外(文久)→青山足軽町(明治)
人口・城下2099人、家数431軒(壬申戸籍は士族を含むとされる) 明治5年(1872)現在
なお、美濃郡上の青山家は、本家の篠山藩青山家の分家になる。

※青山の地名の由来は、この附近に郡上藩主青山家の屋敷があったことによる。徳川家康の重臣青山忠成が家康の鷹狩に同行していて、「馬に乗って一回りして来い。その範囲の土地を屋敷地として与えよう」と言われたので、忠成は馬が斃死するまで駆け回って広大な土地を賜ったと言われる。忠成の長男は、丹波笹山藩主となって幕末まで続いたが、四男幸成の家も、美濃群上藩主として幕末を迎えた。


■大元一族と大元家 南北朝時代、奈良吉野の地で朝廷に仕えた神官の家系

大元家 家紋:五本骨扇に月丸

最後になったが、父方の祖父(貞典)の姓は大元(曾祖父は大元次郎一)である。つまり、國井家に養子にきて、國井姓となっている。長女である和子が國井姓を継ぐ為、養子でなければ結婚を許されなかったのである。それは、立人の強い意志であったと思われる。その大元家の先祖は、奈良の吉野である。吉野山には大元家の墓があり、その昔、朝廷(南朝)に仕えた神官の大元一族の家系である。神官といっても、もともと大元氏は地元の小豪主(所領は大元山の麓)にすぎなかった。南北朝の乱の中で、吉野の山中に南朝の都を築くことになり、地方豪族や、所領などを持たない豪主、僧侶、神官、商人、大工などが集められ、館従として採りたてられている。また、兵も不足しており野武士や山賊、野党、浪人なども採りたてられた。ただ、大元家の明治以前の記録は、大東亜戦争で消失しており、大元次郎一(貞典の父親)の手記や写真しか残っていないのだが、吉野の「大元山」の出であることは確かである。

大元次郎一は、昭和51年に胃癌で亡くなっている。大東亜戦争前の、中国旧満州国時代は上海に居住していたことがあり、貴金属商などを営んでいた。日本に帰国後も、大阪・東京で手広く事業をしていたようだ。先の戦時中は、陸軍憲兵隊所属の物資調達班長でもあった。戦後まで東京立石に居住していた。物資調達班とは、いわいる憲兵隊長指揮下の特殊専門職の資格を持つ補助憲兵である。次郎一は、金属や鋼の材質などに詳しく、その知識・技術が認められて物資供出の監査技官となった。憲兵隊司令部の指揮に属し、士官・准尉(分隊長)の待遇で、憲兵勤務補助を遂行することを認められていた。昭和十二年に、憲兵上等兵候補者と技術資格者が全国から募集され、専門試験の合格者の待遇は破格のもので、下士官同様の帯刀・長靴履き(技官クラス)を許された。この憲兵の勤務補助者には、憲兵条例が準用され指定者は、所属兵科の服装(軍装備)を着用し将校軍刀(准尉待遇)を貸与、その上で左腕に赤布の腕章を着用。(尚、大元家は、次郎一の長男である大元昭典(陸軍中野学校卒)が家督を継ぎ、次男の貞典(音大卒)が國井家に養子に入る)

さて、話をもどすが、吉野山と言えば、「千本桜」を想像する桜の名所、そして吉野山の麓には、「金峯山寺」という山門があり、奈良時代の山伏がこの地に「蔵王権現」を祭った事から興った寺院である。本堂は「蔵王堂」(神仏習合)と言っている。また、吉野山は南北朝時代に後醍醐天皇が「吉野朝廷」を置いたが、その跡が、この寺の中に残っている。

・大元家の故郷は桜の名所 吉野山

後醍醐天皇は、都から逃れてきて「南朝」(吉野の朝廷)を開いた。世はまさに、南北朝時代に突入、全国の武将は北朝と南朝にわかれ、それぞれに味方し、天下が二分された。1347年、現在の日出町の地頭であった大友系「大神(戸次)朝直」(おおがともなお)や戸次時頼(べっきときより)は「左中将伊房」等と共に阿蘇大明神に『起請文』(きしょうもん・神前で約束する誓約文)を奉げ、同盟を結んで南朝方についた。大元家は、その時に大友氏に仕えていた地元の豪主(大元山を所領とした)である。大元山という地名も、一帯を大元一族が所領にしていたことから、山の名称として残っているようである。また、同じ大友系でも「木付氏」(杵築市)や「田原氏」(大田村・国東町)などは、北朝方についている。

・金峯山寺蔵王堂宇佐八幡

興味深いのが、この地の宇佐八幡に祭られている八幡神(応神天皇)のご神体があるのだが、その巨石は「大元山」(おおもとさん・御本山)の石が守神となって降りてきたとものだと伝えられている。大元山には大元神社があり、その一帯を支配していた「大元一族」が神社を奉ったとも語られている。また、大元一族から出た神官が、「大元姓」を名乗り、南朝に従った後に、神社を祀ったのではないかという説もある。
南北の乱については、朝廷が南朝(吉野)と北朝(京都)に分かれて対立し,約半世紀の間(1336〜1392年),くりひろげられた全国的な内乱である。1336年,建武の新政にそむいた足利尊氏が九州から東上して京都にはいり,持明院統の光明(こうみょう)天皇をたてたので,大覚寺統の後醍醐天皇はひそかに京を脱して吉野(奈良県)にのがれて南朝を開いた。これに対して京都の朝廷を北朝といい,以後,南北朝の対立がはじまった。しかし、南朝方の勢力は徐々に縮小、わずかに吉野地方や九州・東国の一部に勢力をもつにすぎなくなっていた。しかし、足利氏の内わもめや荘園の混乱など,多くの社会的・政治的な変動が背景にあったため,対立は長びいた。そして、1392年に,吉野の後亀山天皇は将軍足利義満のすすめで京都に帰り,北朝の後小松天皇に譲位する形で南北朝の合一が行われ,南朝は事実上滅ぶことになる。これを、南北朝の動乱というのであるが、その後は、吉野の地もその役割を終えて、南朝方についた豪族達も散っていくことになる。また、大元山の中腹には大元神社(現在は廃社)があり、その昔に大元一族が奉納したものと推測できる。祖父の古書には南朝に関する資料も多くあったと記憶するが、吉野山の大元家の墓石には、天皇家よりも花弁の枚数が少ない「菊の紋」が微かに残っているらしい。吉野山は、源義経の妻、「静御前」が鎌倉八幡宮境内の舞台で、源頼朝に強いられて、工藤祐経の鼓、畠山重忠の銅拍子に合わせて、今様(いまよう)をうたいながら舞った。「吉野山、峰の白雪ふみわけて 入りにし人のあとぞ恋しき」 「静やしづか しづのおだまきくりかえし 昔を今になすよしもがな」と頼朝を恐れる色もなく、義経を思う切々の情を見事に歌い上げた。謡の中の「吉野」こそ、蔵王堂のあるこの場所で、短い期間であったが義経が身を隠した吉野山である。

・大元家の家紋、五本骨扇に月丸について 
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・五本骨扇に月丸 (清和源氏義光流)
大元家の家紋は、戦国武将として有名な佐竹氏の家紋ど同じ「扇に月丸」である。しかし、家紋は黒白で表すため「月丸」はときに「日の丸」に誤られることが多いが、「五本骨扇に月丸」が正しいものである。佐竹氏の「扇に月丸」紋には、以下のような話が伝わっている。『吾妻鏡』の文治五年(1189)八月二十六日条に、「佐竹四郎、常陸国より追って参加、佐竹持たしむる所の旗・無文(紋)の白旗也。二品(源頼朝)咎めしめ給ふ。御旗と等しくすべからざるの故也。よりて御扇を賜ひ、佐竹に於いては、旗の上に付くべきの由、仰せられる」とあり、このことから「佐竹系図」では、以後「五本骨月丸扇を旗に結び家紋とした」とある。佐竹氏は頼朝と同じ清和源氏であり、『別本佐竹系図』には、「家紋─隆義までは白旗なり。秀義のとき頼朝に従い、始めてこの紋を賜るなり」と初めから紋として賜ったように記している。しかし、頼朝から賜ったのは扇そのもので、それを旗に付けたことから次第に家紋に変化していったものである。また、扇は、涼しさを求めることから生まれたものだが、古代では扇に神霊が宿るものとされていた。扇の語源は、“あふぎ”で風を送り「神霊を仰ぎ寄せる」ことを意味している。これを所持しているだけで、災難除けになったのである。軍配団扇紋が、それの極至である。
文治5年(1189年)源頼朝が奥州征伐の折に佐竹氏は、白旗を掲げて頼朝陣に参上したという。頼朝曰く、「白旗では、源氏の誰だかわからぬ。以後、旗の中に扇に月を据えよ」以後、佐竹氏は、「扇に月の丸」となった。ところが、歴史は面白いもので、いつのまにか月丸が日の丸に解釈されて、今日に至っている。東京神田に佐竹藩の氏神社が残っていて上記の伝承からすると御神紋は、扇に月丸が正しい。が、町内の氏子の皆さんは、扇に日の丸と解釈されて、今日に及んでいる。家の家紋が、扇に月丸の方があれば、伝承として月と解釈されているか、太陽と解釈されているか確かめられるといいかもしれない。そこに時の流れとともに、伝承にも微妙に変化がみられるのである。(文責/國井慶太)


  伊達正宗に関する記述
Date:
■奥州の覇者 伊達正宗公■

『寛政重修諸家譜』によれば、伊達氏はもともと藤原氏の流れだが、文治5年(1189)、源頼朝が奥州の藤原泰衡を征伐したとき、藤原鎌足を初代とした17代目の朝宗(伊達氏の祖)がこれに従って戦功があり、奥州伊達郡を与えられて以後、伊達氏と名乗ったという。朝宗より14代稙宗が陸奥国の守護となり、相馬、芦名、大崎など、近隣の諸豪族と婚姻を結び、勢力を拡大。その子15代晴宗も奥州探題に任命され、その後も、稙宗と晴宗、晴宗とその子輝宗と、親子対立の抗争にまみれながらも、一族を岩城、留守、石川、国分など、豪族の名跡を継いで拡大を重ねた。

政宗は、永禄10年(1567)8月3日、伊達輝宗の嫡子として米沢城に誕生。母は最上義光の妹。幼名は梵天丸。幼時に疱瘡にかかり、右目を失明。天正5年(1577)、元服して藤次郎政宗と名乗り、のち政宗。朝宗から八代後、大膳大夫政宗が武名と和歌の道(文武両道)の達人であったことにあやかり、命名されたという。ちなみに伊達政宗の異名である「独眼竜」は、中国の後唐の第一世昭宗・李克用が、片目でありながら英傑で、独眼竜と呼ばれた故事に発している。生涯に武勇のみならず文芸の才でも注目すべき政宗の教養は、幼少時より禅僧、虎哉宗乙に師事した事が大きく、仏教、漢詩、人格形成に大きな影響を及ぼしたと見られる。

初陣は15歳、相馬氏との戦いの時と見られる。天正12年(1584)、41歳の輝宗は18歳の政宗に家督を譲った。特に輝宗が病弱であった形跡もなく、一説に、政宗の実母最上殿が、政宗の片目とその性質をきらい、弟の小次郎に家督を継がせるべく策動していたので、輝宗が先を制して政宗を立てたともいう。こののち、政宗は宿敵、芦名氏との対決姿勢を強めていく。天正13年(1585)9月、岩代安達の小浜城主、大内定綱が伊達氏に叛いて、会津の葦名氏や常陸の佐竹氏と通じた。政宗がこれを攻めると、定綱は岩代の二本松城の畠山義継の元に逃れ、その城に囲われた。

政宗は二本松城を攻めようとしていたが、畠山義継は50人ほどの兵を連れ、小浜城にいた政宗にわびに来て、所領はけずられたが許された。翌日義継は、御礼と称して輝宗の陣所の宮森城(小浜城)に来た。義継は礼を述べた帰りがけ、門まで送ってきた輝宗をとつぜん拉致し、脇差を輝宗の胸元につきつけながら、二本松に去ろうとした。

主人を人質にとられた伊達家の家来たちは手出しできず、畠山主従の一団をとり囲みながら、阿武隈河畔の高田ヶ原(高田の渡し)まで追ってきたところで、この日早朝から鷹狩りに出ていた政宗が急報を聞き、駆けつけた。輝宗はこのとき、政宗に「義継を討て。自分にかまって伊達の恥にするな」とさけんだと言われる。政宗は家来に鉄砲の一斉射撃を命じ、義継は輝宗を刺し殺して、小高い丘に上がり切腹して果てた。残りの畠山の従者は一人残らず討ち殺され、伊達の家来たちは義継の死体を切りさいたという。

この事件の原因は、畠山方の計画的な行動だったとも、輝宗が義継を斬るという風聞があったためとも言われるが、真相はわからない。こののち政宗は、父の仇の義継の嫡子、国王丸の二本松城を攻めるが、佐竹、芦名らは連合軍3万となり援軍に寄せたため、8千の兵をもって応戦。人取橋の戦となる。一族伊達成実の奮戦で勝利をおさめ、8ヵ月後に二本松は降伏。以後、政宗は近隣の小豪族を討ち平らげ、苛烈なほどに所領を拡大していく。天正17年(1589)、摺上原の戦においては、磐梯山の麓で芦名、佐竹連合軍1万6千に対し、2万3千の大軍で立ち向かう裏で、芦名氏の家来、猪苗代氏の内応などもあり、圧勝の上、葦名氏を追放。居城黒川城を奪い、本拠を米沢城から黒川城(今の会津若松城)に移す。芦名義広は実家、佐竹氏に身を寄せた。

これにより政宗は奥州66郡の半分、30余郡(沿岸を除く福島、宮城両県と岩手県南部、山形県南部)を手中におさめたが、中央で天下を握っていた秀吉は、この事を叱咤。これに対して政宗は、適当な申し開きをしている。このころから秀吉をはじめ、その周辺の権力者と文通し、贈り物などしつつ中央の情報にもある程度通じていたと思われる。政宗が実力で奥州を制覇していた時期はわずか5年ほどであり、この後、侵略や統一の戦はしていない。政宗の家臣団は、一門、一家、準一家、一族などがあり、血縁や臣従の過程の違いにより分類される。一門は一族衆の中でも伊達姓を許され、代表として伊達成実がいる。他に石川、留守、亘理、白石、岩城などの諸氏。一家は遠戚による譜代重臣であり、鮎貝、小梁川、石母田など。準一家は外様衆で、芦名氏や二階堂氏の旧臣、大名家などから政宗の代に臣従した氏族。一族は譜代で、大立目、遠藤、茂庭、原田などがあり、茂庭義直、綱元親子がこれである。一族以下に宿老、着座、太刀上、召出などがあり、片倉重綱は着座であったがのちに一家に昇格。遠藤元信も商人の出身であったが、政宗はこうした低い身分からも登用したという。

天正18年、秀吉が小田原征伐を開始。かねてより文通のあった秀吉の側近前田利家や、浅野長政からも知らせもあり、また政宗の放っていた情報網からも窺い知れたに違いないが、政宗はなかなか腰を上げなかった。理由はよくわからない。当時、四国の長宗我部氏、九州の島津氏が結局、征伐を受けるまでは従わなかったが、この心境に似たものか、中央から距離を隔てていた事に安心していただけか、城中の重臣の意見が分かれたとする説もある。しかし、次々に入る知らせを受け、ようやく小田原参陣を決意。ここでまた事件勃発。通説では、政宗が出発する前日、母に食事に招かれたが、政宗の膳を膳番が毒見したところ、血を吐いて倒れたという。政宗は直ちに帰って弟小次郎を呼びよせ、これを斬った。

すでに秀吉の怒りにふれた政宗を毒殺し、弟小次郎を立て、伊達家の安泰をはかろうとした母の計画で、その黒幕は、母の実家最上氏であったともいい、また一説には、母がかねがね伊達家の家督を小次郎に継がせたっており、領国を留守にするにあたって、政宗が打った大芝居だともいう。何しろこのあと、政宗の母は実家最上氏のところに去っている。天正18年5月9日、会津を発ち、北条の領地をさけて回り道して、6月5日に小田原到着。秀吉は面会を許さず、底倉(神奈川県箱根町)に蟄居を命じ、それまでの振る舞いについて詰問させたが、政宗は理由を申し開きし、6月9日、構築中の石垣山城に呼ばれて秀吉に面会し、領地を削られはしたものの伊達百余万石を安堵され、6月25日会津に帰国。7月、秀吉の命に従って米沢に移った。このとき秀吉は、白衣(死装束)で現れた政宗の首を、杖で打ち、「もう少しおくれて参着したら首が危なかったものを」といったという。

また、自分の刀を政宗にもたせて伴をさせ、石垣山の頂上から小田原の布陣を説明したので、政宗は秀吉の肝の大きさに驚いた、などと伝わっているが、今さら秀吉を害せば返って伊達家の破滅は免れないので、恐らくは後世の付会であろう。小田原城を落とした秀吉は8月9日、会津にて奥州の配置を定め、会津に蒲生氏郷を42万石で入れ、政宗は岩出山城に移った。この際、検地や新領主らの不手際により、大崎、葛西氏の旧領を与えられた木村吉清(5千石から30万石の大名に抜擢)の所領をはじめ奥羽各地に百姓一揆が起きた。蒲生氏郷と政宗は鎮圧を命じられ、氏郷は鎮圧に活躍したが、政宗はむしろ一揆を煽動したと言われている。この頃、会津黒川にて92万石の大大名に一躍昇進していた蒲生氏郷は、秀吉により政宗の監視を命じられ、氏郷は政宗に謀反の疑いありと報告したとも言われ、政宗は、新任大名たちの失政を煽り、奥羽全領の支配をねらったと見なされ、秀吉から京に呼ばれて詰問を受ける。この時、政宗が死装束に金箔の磔柱を用意して弁明につとめた話が有名だが、実際には、蒲生氏郷の突然の病死と、徳川家康や前田利家のとりなしという好材料に恵まれて無事を得たと見る方が妥当だろう。

が、政宗自身に知己が多かった事も確かで、特に和歌の教養は、秀吉主催の歌会に多く呼ばれている事からもしのばれる。他に茶道、書道、能、香道などが知られている。文禄元年(1592)の朝鮮の役にあたり、政宗は千人の将兵を引き連れて上洛し、軍装の壮麗さで秀吉にほめられている。予備軍として肥前の名護屋城につめ、翌2年(1593)4月から8月の間は渡海。南朝鮮で戦い、9月名護屋に帰陣。文禄4年(1595)岩出山に帰国。7月、関白秀次が秀吉のために自殺すると、政宗はこれに連座して秀吉の怒りを招き、伊予に転封させられそうになったが、家康のとりなしにより無事を得た。関ヶ原の戦いでは家康に通じ、会津若松の上杉景勝を攻撃。戦後は千代(仙台)に城を築きはじめた。岩出山城は居城としては手狭さで、地理も悪かったため、千代の築城では、規模や領国統治の条件を考慮し、城が完成し、千代を仙台と改めると城下町の経営に力を入れている。仙台城は、大手門を肥前名護屋城から移し、桃山風の書院造りなどは、秀吉の好みにも似て豪華なものであったが、天下も定まり、領土拡大の不可能を見通したのか、武備としての天守、城の飾りとしての天守の趣きは感じられない。この時期、政宗は秀吉の遺命を破り、長女五郎八姫と家康の六男忠輝との婚約を成立。この後も嫡子忠宗に、徳川二代将軍、秀忠の養女振姫を正室に迎えるなど、徳川家と密接になっていく。ちなみに政宗は、十指に余る子供に恵まれている。嫡子となった忠宗は正室愛姫の生んだ二男であり、庶長子、秀宗は分家の上、四国の宇和島伊達氏の藩祖となる。また九男宗実は、伊達成実の養子となっている。

政宗には逸話が多いが、徳川政権が安定してからは、武将としてより外様大名として保身する話が多い。家康が政権を握ると、外様大名はつぎつぎと江戸参勤して妻子を江戸に居住させ、家康に二心なきを証明したが、政宗は諸大名に先がけて子の秀宗をいち早く江戸に送った。あるとき、政宗が京都から歌舞伎の一団を仙台に呼んで興行させたが、武将の中には、かつての勇武な政宗と比べて嘆く者も多かった。が、加藤清正は、「さすがに伊達」と、さっそく熊本にも歌舞伎を呼んで興行させた。これも大名たちが遊芸にふけっている方が、幕府に怪しまれないと思ったからだという。慶長16年(1611)ごろ、宣教師パードレ・ソテロによって切支丹に興味をもち、城下での布教を許したが、同18年(1613)にローマに派遣した支倉常長が、元和6年(1620)に日本に帰る間に、切支丹禁令が発せられたため、帰国した常長を牢につなぐことになる。大阪の陣においては、はじめから徳川家に荷担。夏の陣で豪将、後藤基次を討ち取っている。

元和元年(1615)、伊達家江戸屋敷が火事にあったが、修理は小規模で済んだ。しかし政宗はこわして新築しようとしたので、重臣は万一のための軍資金をこそ案じた。政宗は「天下太平で戦乱の起きる心配もない今、万が一には公儀から軍資金は借用すればよい」と一笑し、屋敷を建て直した。これも、江戸に贅沢な屋敷を建てて幕府に見せ、警戒を解くためという。徳川家光が将軍就任のとき、諸侯を集めて「祖父家康、父秀忠は諸侯の授けを得て将軍となったが、自分は生まれながらの将軍であるから、すべての大名方は今後は臣従の礼をとるべきだ。異存があれば直ちに国元にて一戦の準備をされよ」と言った。政宗は居並ぶ諸侯の前に出て、「政宗はもとより、諸侯にも異存のあるはずがありません」と平伏したので、みな同じように頭を下げたという。政宗は家光の前では、常に腰の大脇差を控えの間に置いて席に着いたが、家光は、家康、秀忠、家光の三代に仕えた政宗に報いて、特に脇差を許した。政宗は、「家康公、秀忠公二代には、戦場で御恩に報ゆることもできましたが、上様にはそれらしきこともできませんのに、ありがたお言葉をいただき、御恩は死んでも忘れません」と答え、心地よく酩酊して大いびきをかいて寝てしまった。家光の近習が政宗の大脇差を抜くと、中身は木刀であったという。政宗の晩年は家光によく愛されたようであり、政宗が病床につくと、家光は直接見舞ったり、医者の手配をしている。寛永13年(1636)5月24日、江戸の桜田藩邸にて政宗死去。70歳。官位は従三位権中納言、陸奥守。近年の発掘調査によると、死因は食道噴門癌による、癌性腹膜炎と診断された。辞世「曇りなき心の月を先だてて浮世の闇を照してぞ行く」。他に「馬上少年過ギ、世平白髪多シ、残躯ハ天ノ赦ス所、楽シマザレバ是レ如何」が有名。
のち伊達騒動などの危機もあったが、伊達家は安泰で明治を迎えた。


  伊達家に関する記述
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■仙台藩家臣団■


 伊達氏は鎌倉時代以来の豪族で、日本でも有数の大名であり、その家臣の数もまたきわめて多かった。この家臣団を維持統制していくために「家格」が設定されている。大別して門閥・平士・組士・卒の4等級に分けられている。この基本的形態の「家格」が形成されたのはほぼ慶長年間のことで、その後に厳密な座列も定められ家格の階層ができあがったようである。

 仙台藩は地方知行といって家臣に知行を土地で与えていた。一万石以上の大名級家臣が10人を超えており、仙台城下にそれぞれの屋敷を与えられるとともに、領内各地に配置されていた。その重要性によって、城・要害・所・在所に区分される。城は白石城1ヶ所で一家の片倉氏が配置されていた。亘理伊達家は城に準ずる要害であるが、要害は小城下町を形成し、知行主は知行百姓、町民に対する支配権を有していた。このように要害には重臣を配置している。さらに要害に次ぐ要地でおもに交通商業の場である町場を所、農村を在所と定め、上級家臣を配置している。城・要害・所・在所のこの家臣団配置を「仙台藩四十八館」と呼び、まさに小幕藩体制であったことが知られる。

 仙台藩62万石の広大な領地は家臣団の巧みな配置と門閥による家格制度によって支配していた。主要な重臣を北の南部藩や南の相馬藩、米沢藩への備えとしている。本藩を幕府とすれば、これら城館配置の家臣はさしづめ大名のようである。仙台城下に仙台屋敷を与えられ、あたかも参勤交代のごとく仙台と城館との間を行き来していたのである。

 寛政4年に完成した「伊達世臣家譜」には百石以上の家臣が伊達氏に臣従するに至った事項が記されている。これによると門閥は伊達氏との親戚関係や由緒あるいは伊達氏に対する功労によって格付けされたもので、いわゆる伊達氏の一族あるいは一族待遇のものである。仙台藩の大きな特徴として旧大名級の家臣を数多く抱え、一族や同族を抑える新家格制を設けている。大別して門閥、平士、組士、卒の四等級に区分され、組士以上は士分である。

 仙台藩は旧大名級の家臣を数多く抱え、一族や同族を抑える新家格制を設けた。大別して門閥・平士・組士・卒の4等級に区分され、組士以上は士分であるが、卒は一般に士分とみなされず凡下とよばれた。門閥は、伊達氏との縁戚関係や家柄・由緒などによって格付けされ、家臣団の上層部を占めるが、さらに一門・一家・準一家・一族・宿老・着座・太刀上・召出の8階級に分けられた。平士は伊達家軍事力の主力をなす騎馬軍団で、仙台城の警備や治安維持に当たり、また藩政を執行する諸役人に任ぜられている。組士は平士の下の下級武士で、身分は士分である。卒は伊達家家臣団の中で最下層を占めており、一般には士分とみなされず「凡下」と呼ばれていた。小人・足軽・同心・諸職人がこれに属していた。一家や一族は中世大名の家に一般的にみられるが、江戸時代になってからもこれを維持した大名は他にないといわれ、伊達家が中世大名としての伝統の強さが知られる。幕末において仙台藩は約3万3千800余人の家臣を抱えており、諸藩の中でも隋一であった。領内全域に濃厚な軍事的な性格を有していたが、末端の家臣においては農民同様の生活を営んでいたものと思われる。

 以上が伊達家家臣団を構成する家格の概略である。亘理伊達家を理解する意味で、門閥についてさらに詳しく触れておきたい。門閥は8階級に分けられ、伊達家家臣団全体の中では約10%を占めている。一家1.6%、淳一家0.9%、一族2%、宿老0.3%、着座2.6%、太刀上0.9%、召出7.8%の割合である。一家や一族の制は中世大名の家に一般的にみられるが、江戸時代になってからもこの制を維持した大名は他にないといわれ、伊達家が中世大名としての伝統の強さが知られる。國井家は、伊達一族の宮内家に奉公した家臣である。  


・仙台藩歴代藩主一覧

代数 藩主 法名 就任年齢 在任年数 在任期間 死亡年齢

1代 政宗 貞山 18 53 天正12〜寛永13 70

2代 忠宗 義山 38 23 寛永13〜万治元 60

3代 綱宗 雄山 19 3 万治元〜万治3 72

4代 綱村 肯山 2 44 万治3〜元禄16 61

5代 吉村 獅山 24 41 元禄16〜寛保3 72

6代 宗村 忠山 26 14 寛保3〜宝暦6 39

7代 重村 徹山 11 35 宝暦6〜寛政2 55

8代 斉村 桂山 17 7 寛政2〜寛政8 23

9代 周宗 紹山 1 17 寛政8〜文化9 17

10代 斉宗 英山 17 8 文化9〜文政2 24

11代 斉義 正山 22 9 文政2〜文政10 30

12代 斉邦 龍山 11 15 文政10〜天保12 25

13代 慶邦 17 26 天保12〜明治元 50

14代 宗基 3 3 明治元〜明治3 52


一門(11家)
 伊達政宗の代に一門に列した人は、石川昭光・伊達成実・留守政景・亘理定宗・白石宗直・岩城政隆で、これらの諸氏は伊達姓を許された。伊達氏と対抗したり、独立した領主であったが天正末年に伊達氏に属し、「御客大名」と呼ばれた者である。一門は伊達家の血縁者ばかりではない。藩政に直接参与することはなかったが、寛文事件や伊達騒動とか、藩政の非常時には最も強力な発言権を示す傾向にあった。
1.石川氏(一門筆頭)
 一門筆頭で、戦国時代には仙道の雄としてしばしば伊達氏と戦ったが、天正18年小田原に参陣しなかつたために、秀吉から石川郡の所領を没収された。天正19年に伊達氏に属した。志田郡松山六千石を給されて伊達家臣となった。慶長3年に伊具郡角田に移され、二万三百石を領した。
2.亘理伊達氏(一門ニ席)
 一門の二席で伊達  の三男藤五郎実元の子成実を祖とする。成実は政宗とすべての合戦を共にした功臣で、特に仙道人取橋の戦いにおける奮戦は有名である。慶長7年亘理に移り、二万四千三百石を領した。
3.水沢伊達氏(留守氏:一門三席)
 文治6年(1190)に奥州留守職として多賀国府に着任した伊沢左近将監家影の後裔で宮城郡の領主であったが、天正18年小田原に参陣しなかったために領地を没収され、政宗の家臣となった。磐井郡に移されて二万石を領して一門に列した。元和年間に水沢に移され、一万六千三百石を領した。
4.涌谷伊達氏(亘理氏:一門四席)
 もと千葉、武石あるいは亘理を称した。建久元年()亘理郡に所領を賜り、その子孫は亘理氏を称した。応永年間に伊達家に属し、天正19年涌谷に移され二万二千六百石を領した。
5.登米伊達氏(白石氏:一門五席)
 後三年の役に勲功のあった刈田左兵衛経元で、刈田郡を賜り白石城に住して白石氏と称した。室町時代に伊達氏に属し、天正14年安達郡塩松に移り、天正19年胆沢郡水沢に移され、一万五千石を領した。慶長年間に登米に転封され二万石を領した。
6.岩谷堂伊達氏(岩城氏:一門六席)
 平安時代からの磐城地方の豪族で、戦国時代には伊達氏と度々戦った。天正18年岩城常隆が相模で戦死し家は断絶したが、その子岩城政隆が慶長12年にはじめて仙台に来て政宗と謁見し、慶長15年伊達姓を賜って一門に列した。江刺郡岩谷堂に封ぜられ、幕末には五千石を領した。
7.宮床伊達氏(田手氏:一門七席)
 一門七席で、もとは田手氏。伊達氏の一族で先祖は伊達朝宗の六男である。3代藩主綱宗の代に一門に列せられ、伊達姓を賜った。
8.岩出山伊達氏(一門八席)
 政宗の四男宗泰が祖。
9.川崎伊達氏(一門九席)
 3代藩主綱宗の次男村和が祖、享和7年5代藩主吉村の代に一門となった。
10.白川氏(一門十席)
 鎌倉時代以来、白河の豪族であったが、天正18年秀吉に取り潰された。慶長7年、名門の故をもって政宗に召されて客分となり、4代藩主綱村の代に一門に列せられた。
11.三沢氏(一門十一席)
 もとは山陰の大名尼子氏の遺臣。3代藩主綱宗の夫人や綱村の生母が三沢氏だった関係で三沢信濃が綱宗に召し出され、延宝3年に一門に列せられた。

一家(17家)
 伊達晴宗の頃から上席を占めていた鮎貝氏をはじめとして、秋保、柴田、小梁川、塩森、大条、泉田、村田、黒木、石母田、瀬上、中村、石川、中目、亘理、梁川、片倉の17家がある。


1.鮎貝 一家の上座で奉行・若年寄・大番頭などの要職を歴任。元禄年間、六代盛次のときに柴田郡堤村から松崎村・気仙沼本郷に移封され、本拠となった。
2.秋保 平重盛の次男資盛が祖。7代重盛のとき名取郡秋保長袋に移住、秋保氏を称した。9代則盛のとき伊達家に属し、12代定盛は政宗の家臣となり、一門に次ぐ一家に列せられた。
3.柴田 結城氏の庶流で、四保但馬定朝が祖。
4.小梁川
5.塩森 塩森宗朝の子宗貞のとき禄を没収されたが、その子宗綱は二代忠宗に再興を許された。
6.大条 伊達宗遠の次男宗行が祖。元和2年、亘理郡坂本本郷に移り、歴代奉行を務めた。明治になって伊達の姓に戻る。
7.泉田
8.村田 小山業朝が伊達家に属し、柴田郡村田郷に住み村田氏を称した。
9.黒木
10.石母田 甲斐源氏の流れ。
11.瀬上 延享2年桃生郡鹿股村に移り、明治に到る。
12.中村
13.石川
14.中目
15.亘理 千葉常胤の三男武石胤盛が祖。天正19年重宗のとき、遠田郡涌谷に移った。
16.梁川 宗直は白石宗実の養子となり、登米伊達家の祖となる。梁川の名を残すため、宗直の三男宗元が祖父宗清の跡を継ぎ準一家となる。
17.片倉





準一家(10家)
 猪苗代氏を筆頭に天童、松前、葦名、本宮、高泉、葛西、上遠野、保土原、福原の10家がある。葦名、葛西は戦国大名の後裔である。


1.猪苗代 天正17年葦名氏と絶って政宗に仕える。
2.天童 山形城主最上家の庶流。
3.松前
4.葦名
5.本宮 
6.高泉
7.葛西
8.上遠野
9.保土原
10.福原
 

一族(22家)
 大立目、大町、大塚(胆沢郡金ヶ崎)、大内、西大条、小原、西大立目、中島(江刺郡上口内)、宮内、中島(宮城郡中野)、高城、大松沢、石母田、坂の22家がある。


大立目 二階堂氏を称していたが、伊達郡大立目に住み大立目氏を称した。天正18年葛西大崎一揆に功のあった宗重が遠田郡中津山に領地を拝領。
1.大町
2.大塚(胆沢郡金ヶ崎)
3.大内
4.西大条
5.小原
6.西大立目
7.中島(江刺郡上口内)
8.宮内(駒ヶ嶺領主)
9.中島(宮城郡中野)
10.高城 留守氏の一族。本家の留守氏とともに所領を没収され、伊達家の家臣となった。
11.大松沢
12.石母田
13.坂



宿老(3家)
 政宗の初期から側近として仕えたものが多く、一門・一家・一族の取り締まりにもあたった。

着座(38家)
 低い身分から政宗に登用され、先祖から家老(仙台藩では奉行とよんだ)を出した家である。

太刀上
 毎年正月の賀礼に太刀を献上し、藩主から盃を頂戴できる家柄である。

召出
 毎年正月の宴会に召し出される資格のある家柄である。

■ 宮内家は、伊達一族の遠藤家の家系 ■

遠藤氏 紋所:藤の丸/三つ引両(藤原氏後裔)

藤原南家の流れで、遠藤武者盛遠すなわち文覚上人を祖とする。後裔の遠藤盛継が応永八年(1401年)鎌倉公方より志田・玉造・加美三郡の奉行に任じられて陸奥国に下向して、志田郡松山城に居城し、応永11年志田千石村に万年寺を創建している。盛継の子盛定は、永享の乱で鎌倉公方足利持氏に属し、のち志田郡松山に帰って、伊達持宗の麾下となった。以後、盛行−行定−光定と続いた。戦国時代の松山地域は、西の大崎氏、東の葛西氏の接点にあり、さらに、南からは伊達氏の勢力がせまってくるという微妙な状況に置かれていた。

天文五年の「大崎氏の内乱」に際して、光定は伊達稙宗に従って古川城攻撃に参陣しており、このころには、伊達氏の傘下に入っていたものと思われる。光定の嫡子定親は伊達稙宗・晴宗に仕えて、一族に列せられ、三引三段頭紋を賜った。伊達家中を二分した「天文の乱」では晴宗方に付き、松山内の旧領を与えられた。遠藤氏の居城松山城は別に千石城とも称され、伊達最北端の要衝守る城として、整備された。千石城を有名にしたのは、天正十六年(1588)の「大崎合戦」であった。大崎氏は内訌の多い家で、天文の内乱を伊達氏の支援によって解決したのちも、とかく内乱が続いた。

とくに戦国時代末期、最期の当主となった大崎義隆の代に、義隆の寵童同士の反目を発端として、主流、反主流派の二派に分かれて家臣団が対立した。それに伊達政宗が介入したことで、大崎氏と伊達氏との一大争乱に発展したのである。
 伊達政宗は、留守政景と泉田重光を大将に命じて、一万数千の兵を率いさせて大崎領に進攻した。伊達勢が大崎方に対する前進基地としたのが千石城で、当時、定親の子高康が城主であった。千石城に集結した伊達勢は、大崎方が本城とする中新田城攻略の軍議を催し、泉田率いる先陣と留守率いる後陣とに分かれて中新田城に進軍した。かくして、大崎合戦が展開され、結果は伊達軍のまさかの敗北に終わったのである。

天正十八年(1590)、小田原城を攻略した豊臣秀吉は奥州に駒を進め、奥州仕置を行った。その結果、小田原参陣を怠った大崎・葛西氏らは所領没収の処分を受け、小田原に参陣したとはいえ、秀吉の奥州惣無事令に違反した伊達政宗は南奥の領土を収公された。その後、奥州は太閤検地が行われたが、それに反抗する大崎・葛西氏の遺臣らが一揆を起した。「大崎・葛西一揆」と呼ばれるもので、蒲生氏郷とともに政宗は一揆討伐を命じられた。

一揆討伐に際して政宗は、千石城を前線基地とした。一揆制圧後、大崎・葛西旧領は政宗に与えられ、遠藤氏は志田郡松山領から登米郡石森村に知行替えとなり、千石城には石川昭光が配されたのである。その後、遠藤氏は石森村桃生郡相野谷に移封され、一千石を禄し子孫相次いだ。

戦国時代の一般的な甲冑(飯田家と同形)


仙台藩に仕えた遠藤氏に、山城守基信家がある。基信は、藤原姓伊達掛田兵庫頭俊宗の一族で、米沢の伊達山伏藤原役行者流の修験者、伊達郡八丁目西水原西光寺住職を努めた役行者金伝坊の子。伊達家宿老の中野宗時の主簿の吏となり、後輝宗に認められて近臣となった。勇敢にして奇才があった。さきに仕えた中野宗時は奢侈無礼を極め、のちに追われて越後に出奔した。そのとき、多くの家臣が中野に従ったが、基信の説得でのちにそのほとんどが帰参したという。天正13年米沢で輝宗の訃報に接した基信は大いに悲しみ、輝宗の葬儀の日に殉死しようとしたが政宗に制止されてはたせず、その百ケ日忌辰の日に輝宗墓前で自裁した。享年54歳であった。

その子が宗信で、17歳で家督を継ぎ、政宗に仕えて宿老となる。天正16年六月、佐竹・葦名連合軍来攻のときには富塚近江とともに塁を守り、同17年佐竹・岩城軍が田村の地を侵したときには田村城を守った。文禄朝鮮の役に従軍し大功をあげたが、故あって出奔。のち富塚・高野・鈴木氏ら伊達家の武将に諭されて帰参した。文禄二年、二十二歳で、京都室町の旅寓に病死した。そのあとは、弟の式部少輔玄信が継ぎ、玄信は慶長十九年に奉行職となった。

■ 遠藤氏の系図は、征夷大将軍に任じられた藤原忠文が祖 ■

遠藤氏の系図を見ると、天慶の乱に際して朝廷から征夷大将軍に任じられた藤原忠文が祖となっている。『古事談(巻四ノ六)』によれば、天慶二年2月8日、「天皇は南殿に出御なされた。征夷大将軍右衛門督・藤原忠文に節刀を賜い、坂東の国に下し遣わした。このとき、参議・修理大夫兼右衛門督・忠文を大将軍とし、刑部大輔・藤原忠舒、右京亮・藤原国幹、大監物・平清基、散位・源就国、源経基らを副将軍とした。2月1日、下野の押領使・藤原秀郷、常陸掾・平貞盛ら4000余人の兵(あるいは一万という)を率い、下野国において将門と合戦している間、将門の陣はすでにうち負かされていた。三兵の手に迷い、身を四方に逃れて、矢に当たって死んだ者は数百人であった。」と記されている。
 藤原忠文は、藤原氏式家の藤原枝良の子。貞観15年(873)〜天暦元年(947)を生きた人物で、参議で、民部卿を務めたことが知られている。遠藤氏は、一説に藤原南家の流れで、遠藤武者盛遠すなわち文覚上人を祖とするとされるが、藤原忠文を祖とするのであれば、藤原氏式家流ということになる。



■戊辰戦争後の仙台藩■

明治維新の折、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の盟主に担ぎ上げられた。会津藩及び庄内藩に対する同情的雰囲気と、藩としての優柔不断による結果である。仙台藩は多数の兵士を有し、蝦夷地警備の経緯から西軍には劣るもののそれなりの性能の兵器を有していた。しかし、軍制が分権的であり全体を強力に統率する人材も特になかった。 相馬藩の裏切りにより、相馬口駒ケ嶺付近で激戦となったが、仙台藩の各隊がその場の目先で戦う傾向が大きく、また仙台藩重臣等は、オロオロするばかりで、仙台藩兵1266人が戦死して、なし崩し的に恭順・開城となった。

明治政府より賊軍盟主の責任を問われ、仙台藩は、実高100万石からすると三分の一以下の28万石に減封される。この激烈な減封により、仙台藩士たちの生活は完全に破綻し、在地で帰農する者の他、新天地を求めて北海道へ移住する者たちを大量に出すことになる(城下町・仙台では、侍町だった東一番丁で没落士族たちが商売を始め、現在の中心商業地「一番町」へと繋がる)。

主な集団移住地 : 札幌市周辺、及び、室蘭市周辺
宮城県南部、現在の白石市周辺を治めていた仙台藩重臣である片倉家(白石城主)は、家臣たちと共に札幌市周辺(札幌市白石区・札幌市手稲区)と登別市(室蘭市北東隣)へ集団移住した。
宮城県北部、現在の大崎市岩出山周辺を治めていた岩出山・伊達家は、家臣たちと共に現在の当別町(札幌市の北隣)へ集団移住した。
宮城県南東部、現在の亘理町周辺を治めていた亘理・伊達家は、家臣たちと共に現在の伊達市(室蘭市の北西隣)へ集団移住した。
このように、戊辰戦争に敗北したことで、仙台藩は知識階級でもある藩士たちを大量に失い、その後の宮城県の産業発展に暗い影を落とした。

また、仙台藩の主要施設は新政府に接収された。仙台城二の丸に東北鎮台(後、仙台鎮台→陸軍第二師団)が置かれ、三の丸は錬兵場になった。伊達政宗が隠居した若林城(若林区の由来になった)に至っては、宮城集治監(現在の宮城刑務所)とされ、西南戦争の国賊の収容施設とされた。

廃藩置県によって、仙台藩は、仙台県・角田県・登米県・胆沢県に分かれた。最終的に、旧仙台藩の北部(現在の岩手県の北上市から南の地域、沿岸では気仙郡)は岩手県に組み込まれ、相馬新地町は福島県に編入され、その他のほとんどの部分が宮城県へとなっていく。

・駒ヶ嶺・旗巻峠古戦場跡 http://seuru.pupu.jp/sisekikomagamine.html


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