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  主体と客体の合一な体験
Date: 2019-07-21 (Sun)
聖フランチェスコの事を言わずして語れない

前にもバーソロミューの書物の事について書いた事がありました。

そのなかに聖フランチェスコが体験した事について、少し話せたらと思いました。


三昧とはどういうものなのか?

それについて少し話せたらと思いました。

悟った存在ではない自分がこんな事を言うのも烏滸がましいと思いますが、

正しい坐相をねらって、思いを手放し雑念にふりまわされず、続けて行くと、

普通の意識状態を超え、意識の限界に達した時、意識の境界線を越えて、

最後に一瞬の飛躍があり、主体と客体の合一な体験をする事になるかもしれませんグッド!

神人合一体験は不立文字です。


聖フランチェスコは愛したいけど、どうして愛したらいいのか解らないというジレンマ・・・・。

全身が疑問のかたまりのようになって、何日も苦しみが続き、不安が増し、

イライラと絶望がつのり、もうすぐ夜が明ける頃、外窓の向こうで、一羽の鳥が鳴いたそうです......。

その鳥の歌声のパワーによって、ついに・・・・悟ったのです!!


まず、聖フランチェスコは病床で、心の境界線が少しずつ崩れ、高熱にうなされる状態のなかでと言う事みたいですが、

高熱の時は意識がとんとんとして、 心の境界線が少しずつ崩れてしまいそうですが、

でも聖フランチェスコは狙っての事ではないのですが、偶然起こしたものだったと言うよりも?

愛したいけど、どうして愛したらいいのか解らないというジレンマ・・・・。

全身が疑問のかたまりのようになって、何日も苦しみが続き、不安が増し、悩み続けた結果光明を得たのです。

その鳥の歌声のパワーによって、ついに・・・・悟ったのです!!



※ 悩み続けた結果、悩みと一つになり、それによって自分と隔てているものが無くなり

鳥の歌声のパワーによってついに・・・・悟ったのです!?



そんそな事を言っても意味が解らないかもしれませんけど、

鳥が自分で、自分が鳥のように一体になった時に、鳥の生命力あふれる歌声のパワーによって悟りを開いたのです。

確かに歌声のパワーによってと言うものですが、心の境界線が崩れる時にそのように生命力あふれる歌声に聞こえていたのです。

今までに聞いた事のないような歌声、まるで鳥が鳥の歌声ではないような声だったと思います。

そのような不思議な歌声として聞こえていたのです。

それが悟り(見性)体験だったと思います。


またこういう事を言えるかもしれません。

我をわすれて、そのものそれになりきった時、何らかの感覚の縁にふれて、

そのとき初めて、本来の自己を悟ると言うものかもしれません!?

そのものになりきって、(ものになる)ところに本来の自己が現れるものだと思います。



道元に、聞くままに、心なき身にしあれば、己れなりけり軒の玉水という歌があります。

無心で座禅をしていると雨だれの音を聞いて、

自己を忘れて、無心に聞く時、軒の玉水がそのまま自己であったというのです。

自己を忘れた時、方法に証せられる。



■ 最後に一瞬の飛躍 光のかけ橋
Date: 2019-04-09 (Tue)
道元に、聞くままに、心なき身にしあれば、己れなりけり軒の玉水という歌があります。

無心で座禅をしていると雨だれの音を聞いて、

自己を忘れて、無心に聞く時、軒の玉水がそのまま自己であったというのです。

自己を忘れた時、方法に証せられる。


前にも日記で書いた事がありましたけどね。

秋月先生はこのようにおっしゃつていますね。

自己を忘れて、万法の方から逆に自己修証される時に(悟り)の世界が開けます。

自己が世界を対象として見ている時は、自己と世界とが二つになる。

逆に万法の方から進んで自己を修証するという時には、自己が無になって、自己は万法に一如して働くわけですから、

二つが消えて一そのものが動き出してくるのです。

要するに、一つのものを二つ見ているのが迷いで、二つのものを一つ見るのが悟りなのです。


  原石が光輝くようになるのには、
Date: 2019-05-12 (Sun)
道元禅師が言うように

〔玉は琢磨によって器となる。人は練磨によりて仁となる。

いずれの玉がはじめより光ある。誰人か初心より利なる。必ずすべからくこれ琢磨し練磨すべし〕




高い霊性を身に付けるのには、高い霊性を持ちたい、持ち続ける事が高い霊性に繋がって行くと思っているのです。

長い年月をかけて、研ぎっている心の角を削ぎ落とし、たゆまない努力によって少しずつ、まあるい心を取り戻していけるのです。

それには八正道や聖書の真理を実践したり、心の調和や安らぎを見いだして菩薩行を行っていく以外はないと思います。



高橋信次師などは、このようにおっしゃっています。

八正道は己の心を中道という調和に引き戻す神の模範、

心が自然についていける自分自身になった時に初めて菩薩の行が整ってくると言われています。

八正道も知らず、心の調和も為し得ない者には菩薩行は為し得ないと言われていますね。

高橋信次師はこう言っておられます。

八正道とは己の心を中道という調和にひきもどす神の模範であり、

その模範に無理がなく、心が自然についてゆける自分自身になった時に、ひとは初めて菩薩行をなしえるのであると言っています。


[200] 八正道の正しい基準は何か? Date:2012-03-05 (Mon) 光のかけ橋

お釈迦様は長い苦行の結果、八正道を日々行ずる事によって、悟りへの道が開けてくると教えています。

八正道とは正しい見る事、正しく思う事、正しく語る事、正しく仕事をなす事、正しく生活をする事、正しく道に精進する事、正しく念じる事、正しく定に入る事、の八つです。

お釈迦様がいろんな経験を通して、中道のへの道は、八正道以外にないと悟ったと言われています。

八正道の正しい基準は何か?

高橋信次先生の言う正しさとは、自分の立場を離れて、常に第三者の立場で、ものを見る、聞く、語る事が大切で、心の安らぎと全体との調和と言うことみたいです。

その調和は、より高い次元の調和を尺度とする事だと言われています。







  もう一度再生できるのです。
Date: 2019-05-04 (Sat)
自分は言いたい事は、陽はまた昇る事ができる

光を見続ける限り道は開けてくるのです。

もしいま苦しんでいる方がいるなら、勇気と希望を持って、乗り越えてほしいと思っています。

その為には、大切な事は、自分と向き合って、まず気づき生き方を変えていかないといけないと思っています。


顕在意識と潜在能力には隔ててある壁があるのです。

その一部が崩れてしまうと、それまでに抑え付けられていた心の中の抑圧されているエネルギーが顕在意識の表面に上がって行くのです!

奥の底から少しずつ湧き上がって行き、上昇するにつけ圧力は次第に大きくなっていきます。

そして水面(意識)まで上がってくると、それがある種のエネルギーだと解ります。


まるでテープの逆戻しみたいな感じで、カルマの洗い直しと言うような記憶の中に残存しているエネルギーが

身体器官やチャクラの箇所からタカの爪みたいに深く食い込んでいる。

そんな抑圧されているエネルギーが、ほんと沸いては消え頭上に上がって、空間に解き放されて行きます。


これらの抑圧されている感情エネルギーを解放する事が、本来の自分を取り戻す事になるのです!

奥深くしまいこんでいる、また抑えつけていた感情エネルギーをもう一度、湖面に(意識)上に浮上させ解放してやれば、罪や穢れは浄化されて行くのです。


自分は想念帯を開いていますから、カルマの巣と思われる想念帯を開いて、

抑圧されている感情エネルギーの解放がいかに大切なのか良く解っているのです。



■ 過ぎ去った過去を省みる 光のかけ橋
Date: 2016-05-17 (Tue)

ある者は麻薬、覚醒剤、シンナー、ハーブ、強姦、詐欺、売春、殺人、

このような裏社会と言うか?裏の世界を通って来た者、

地上ではありとあらゆる罪穢れの部類に入ると思います。

でもね、自分は言いたい、どんなに罪、穢れていようが乗り越えていけるのです。

ある方にとっては、今世か来世か来来世になるか解らないですが、

どんな罪や穢れがあろうとも清浄なる魂には、付着しないのです。

たとえ付着したと思えても、綺麗に取り除く事ができるのです。

もし汚れたとしても取り除けるのです!!

汚れた皿は綺麗に洗えば、そこには綺麗な皿だけが残るのです。

泥水が濃ければ濃いほど綺麗な大輪の花を咲かせられるのですよ!

また深くおしつけせられているポールは、反動によってより高くボールは跳ね上がるのです。


罪や穢れは本来は無いのです。

それを集めたのは他ならぬ自分なのです。

陽にあたっていない影を日向にだしてあげる事です。

そうしたら、影は影では居られなくなるのです。

また原因不明の病気などは、おもに感情の抑圧されているエネルギーだと思っています。

その感情エネルギーが引き金となってDNAの変異を引き起こすのだろうと言っている科学者もいるのです。


※日頃あまりおめに拘わりたくない奥深く溜めつづけた、(不安恐れ、悲しみ、憤り、憎しみ)

また抑えつけていた反吐がでるような、誰にもみせる事のできない秘密が誰にもあると思いますが、

もう一度過ぎ去った過去を省みて、抑圧することなくあるがまま手放しをしていけば良いと思います。

そうして心の問題を克服し新たに良いカルマを(思い行い)を作っていける事が大切なのです。

反省瞑想など行っていくと良いと思っています。










  反省瞑想
Date: 2019-04-30 (Tue)

現世がどんな過酷な環境の中でも自分を見失わず、我を取り除き、動物習性を取り除き

心の超作、自分づくりを目指していかないといけませんね!

ほんと霊的なものばかり重点に置かずにデコボコした心の角を取り落として、

まわるい心を取り戻す為に、まず気づきがあって始めて対処できますからね!?

その為にも反省や悔い改めしたり、心の浄化に努めてただ超作して行くのが良い事だと思っているのです。

人生後半に差し掛かる時に、自分が歩んだ道をもう一度振り返って

それ以後ポジティヴなものにしていかなくてはならないと思いますが、

どうも見ていると、気づかずそのままにしているような

また難病とか?

どうにもならなくなった時ぐらいしか!

振り返らないような

多分自分がいくら言ったところで、それは宗教だとかたずけているように思います。

だからほんと心から後悔の念とかあれば、行動に移していると思います!!

記憶の中に埋もれているだけにすぎない。

もう終わった事ではないのです!!

誤魔化しは一切できないのですね。

テープレコーダーのように一瞬、一瞬刻み込まれているのです。

自分はカルマと言うものを開けて、いますから解っているのです。

カルマの洗い直しがどんなに重要なのかもね。

ではどうすれば良いのか!?


心の原点 新装改訂版 (心と人間シリーズ) 高橋信次


高橋信次師の心の原点に記載されていますね。

禅宗の座禅にの目的は心を空(カラ)にし、その空の中から己を見出そうとするらしい。

一般的には無念無想になることが、仏を見性することになるらしい。


ところがゴーダマ・ブッタが教えた瞑想はそうではない。

毎日の想念と行為の在り方が、中道に敵ったそれであったかどうかをたしかめ、誤りがあれば、神に詫び、

智慧と勇気と努力で、二度とその過失を繰り返さない自分を修正して行く事にあった。

したがって、瞑想の目的は反省にあって、一日二十四時間の、正しい生活をめざすものであった。

瞑想の為の瞑想ではないのである。






  心の内面を教える
Date: 2019-04-17 (Wed)
高橋信次(引用)

諸如来、諸菩薩は心の内面を教え、諸天善神と言うのは善なる心の人々を擁護するために協力している光の天使です。


また高橋信次先生はこのようにも言っておられます。

インドの古代、ゴ―タマ・シャタルダーはマヤ脇のの下から生まれ、質ぽ七歩歩んで「天上天下唯我独尊」

いいったとかいう伝説があるが、あれは後世の人々ゴータマを神格化するための作り話であり、

またイエスには、マリアの処女懐姙説などがあるが、いずれも神のように祀り上げられてしまった人間の偽説であり、

このような事実はまったくなかった。

一般の子供と同様に育てられ、ただその環境や現象に無常を感じ、

苦痛の中から悟って行ったと言う事で、これは人間がすべてがそうしなければ到達できない。

修行しなければならない現象の定めなのである。


八正道は己の心を中道という調和に引き戻す神の模範、

心が自然についていける自分自身になった時に初めて菩薩の行が整ってくると言われています。

八正道も知らず、心の調和も為し得ない者には菩薩行は為し得ないと言われています。

高橋信次先生や園頭広周師がおっしゃる理由がまさにここにあります。

八正道は小乗であって、小さな悟りと言われているそうですが、正法には大乗も小乗もないそうです。

八正道が実践できてこそ、霊性が高いと言われるものだと思っています。


菩薩という者は本来は悟った魂だと言われています。

終世を救いたいと下生して、生まれてくると聞きます。

一般の子供と同様に育てられ、ただその環境や現象に無常を感じ、

苦痛の中から悟って行ったと言う事です。゜


偉大なる存在 光のかけ橋 
テーマ:心の世界と繋がる癒しのエネルギーブログ

2013-05-24 19:59:57
日蓮聖人は、12歳で親元を離れて近隣で一番大きなお寺だった清澄寺に勉学のために入りました。

16歳の時、正式に僧侶になりますが、その出家の目的は明確で、現在の仏教界に対する疑問解決のためだそうです。


親鸞聖人は年9歳の春、聖人は慈円(じえん)のもとで出家得度(しゅっけとくど)し範宴(はんねん)と名のられ 

以後29歳までの青春まっただ中20年間、比叡の山で仏教の学問・修行に励まれたそうです。


弘法大師空海は 香川県に生まれる。家庭が貧しく、頬がこけるまでにやせており

農民が「空海、なんか食うかい」と話しかけたほどだと伝えられている。

捨て子同然で幼少時より仏門に入ったそうです。     


道元は三歳の時に父親が亡くなり、八歳の時に母親が亡くなった事で、小さい時から孤独の境涯にさらされた。

13才で比叡山に上がられた。14才で出家比叡山で一所懸命修業されたそうです。


  本来の自分をそれを取り戻していく事
Date: 2019-04-09 (Tue)
亡きサイババさんなどは、こうおっしゃっていましたね。

あなた方は改造中な仏だとね


流石に聖者や覚者さんと言われる方は実にうまい事をいいますよね?


自分などが偉そうな事をいう事でもないですが、でもね仏だと自覚しなくても良いのです。

仏なのだからね。

ただ、聞こうと思う念を生じていた故に聞いたというのは、これを仏心で聞くという事みたいです。

本来はそうであったのでしょうけど、それが当たり前になって、自然だから何も気にする事なく、気にも止めないでしょうけどね。


そう〜そんな意識することもなく、本来の自分をそれを取り戻していく事になると、

自然に意識している自分がいるかもしれません!!


花の美しさは、誰も心奪われる方もいると思いますが、またそう思わない方もいると思います。

※でも誰の眼にも止められない小さく、立派に咲いているただの雑草に心を奪われる方はあまりいませんね。

その神秘に輝いている小さくてけなげに咲いている雑草だけど、顔面に飛び込んでくるこの上なく美しく輝いています。



自然の中に感じる感覚を取り戻して行くようになると、この自然の中がまるで天国にいるようです。

自然に見たり聞いたりしている事が、まったく違って見えたり、聞こえたりするかもしれないですね。

それを仏心で見たり聞いたりするというものかもしれませんね。

今そう感じて思い出したりして、あの幼少の頃に感じた感覚が蘇ってきますね。



秋月りょうみん禅師の禅のことばに記載されています。

仏性は不生にして霊明なもの盤珪はいう。

後ろで啼くすずめの声を鳥の声とも聞きたがわず、鐘の声を太鼓の声とも聞きたがわず、

男の声を女の声とも、大人の声を子供の声とも聞きたがわず、

そけぞれの声を一つも聞きたがわず、明らかに通じて分れて、

聞きそこなわず聞き知るは、霊明の徳用(功徳のある働き)と申す。ものでござるわす。

これがすなわち仏心は不生にして霊明なものといいます。

霊明の証拠でござるわい。


只今この座にござる人に、(われは聞こうと思う念を生じていた故に聞いた)という人は、
この場に一人もござるまい。

皆こちらに向いて、身どもがいうことを耳に傾けてよく聞こうとこそしてござれ、

後ろでそれぞれの声のするを聞こうと思うてござる人は、一人もありゃしませぬわい。

したにそよっと不時にそれぞれの声がすれば、通じて分れて聞きたがわずに聞こえますは、

(不生の仏心で聞く)というものでござるわい。

(前方からそれぞれの声がせば、)聞こうと思う念を生じていた故に聞いたという人は一人もこの座にはござらぬ。

それならば(不生の仏心で聞くというものでござるわい)


※聞こうと思う念を生じていた故に聞いたというのは、これを仏心で聞くという事みたいです

仏性というものは人間のすべてめいめいの上に豊かに具わっているもので、衆生は本来仏です。

けれども修行しないと現れないし、それを自覚体験しないと攫む事は出来ないと言う事だと思います。

修せざるには現れずといいますからね。








  最後に一瞬の飛躍
Date: 2019-04-09 (Tue)
道元に、聞くままに、心なき身にしあれば、己れなりけり軒の玉水という歌があります。

無心で座禅をしていると雨だれの音を聞いて、

自己を忘れて、無心に聞く時、軒の玉水がそのまま自己であったというのです。

自己を忘れた時、方法に証せられる。


前にも日記で書いた事がありましたけどね。

秋月先生はこのようにおっしゃつていますね。

自己を忘れて、万法の方から逆に自己修証される時に(悟り)の世界が開けます。

自己が世界を対象として見ている時は、自己と世界とが二つになる。

逆に万法の方から進んで自己を修証するという時には、自己が無になって、自己は万法に一如して働くわけですから、

二つが消えて一そのものが動き出してくるのです。

要するに、一つのものを二つ見ているのが迷いで、二つのものを一つ見るのが悟りなのです。


悟った存在ではない自分がこんな事を言うのも烏滸がましいと思いますが、

正しい坐相をねらって、思いを手放し雑念にふりまわされず、続けて行くと、

普通の意識状態を超え、意識の限界に達した時、意識の境界線を越えて、

最後に一瞬の飛躍があり、主体と客体の合一な体験をする事になるかもしれません。

神人合一体験は不立文字です。

自分が体験して、初めて理解ができると思います。



また道元禅師はこうおっしゃつていますね。

人は素質の劣っている人も優れた方でも、区別なく等しく悟る事が間違いなく出来ると言うのです。

仏法伝授する事は本当に悟った人を師匠にとせねばならない。

文字のせんさくに明けくれる学者は、師匠とするには不足である。

それでは盲が大勢の盲を導くものようなものとおっしゃっていますね。

師から弟子へと伝承するというのは、弟子の目覚め(悟り)にほかならないと言うものです。



自分の持論は、

※対象になりきった自分をも対象をもポンと捨てられるかどうかに、悟りが開けるかどうかに掛っているのです!!

一種の三昧になって、神の力との合一がおこる


お釈迦様が一輪の蓮の花をお示しになり、見てにっこりされた

それを見て摩詞迦葉尊者ただ一人だけが微笑まれたと言うものですが、

お釈迦様の悟りが摩詞迦葉尊者の心に伝わっていったのです。

この心から心へと、直接体験によってのみ伝えられたと思っているのです。


本来は仏であって、仏性を持っているのです。

悟りを開なくても、悟った者なのです。

ないものから、現れはしないのです。

本来は仏であって、死んでから仏になるのではないのです。

誰もが仏性を持ち合わせている仏なのです。

また悟りを開くのではなくて、その悟った姿を何処までもして行く。

!!だから悟りも期待しない、何も期待しないて、結果を狙わず、成りゆきに任せる

それを何とか進化したい、一所懸命に頑張って、取り込んでいるのかもしれませんが、

黙って、10年、その上で10年、さらに10年黙って座りぬく事が大切なんだと思っているのですね。


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