心の世界との繋がり・・・
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1ページ目に最新〜7件の新着情報、2ページ目に過去8件〜60件の新着情報が記載されます。



  清浄なる本性
Date: 2016-07-18 (Mon)
ある者にとっては、非常に厳しいものになるかもしれませんが、

原因結果の因果律これは宇宙の法則のようです。

すべての事象は、必ずある原因 によって起こり、原因なしには何ごとも起こらないという原理だそうです。

本来無垢なままで生まれて来ました。

それが大きくなるにつれ、習慣、思想、癖、観念などいっぱいくっつけて来たのです。

それをもう一度、ジャガイモをゴシゴシ綺麗にするように、

自分のチリやアカを取り除いたなら、本来の自分が現れると言いたいのです。

だから本来そのようであったのだから、何かになったと言うよりも何もならないと言うのです。


深層意識にある重圧されている不純物や不浄なエネルギーを生起させて解放してあげれば、

現在医学で原因不明の難病とかに対して、かなり癒されるのではないかと思っています。

心理学でも不健全な感情を取り組む事は、あらゆる病気自体から解放されるきっかけになると聞きます。

カルマが原因の病気の場合は現在医学の範疇にはないようですが、

これなどは本人のカルマの解消に設けられた試練であり、魂の向上に役立つものだから

根本的に解決するのにはそれなりに時間を要するように思います。

また想念体を開いて、負のエネルギーを解放して行く時には、

カルマが終了して行くためにプロセスが始まったと言うものかもしれません。

ほとんどの原因不明の難病病気は、想念体の中にある(カルマの巣)エネルギーだと思っています。

細胞やDNAにしたって、想念体の中にある(カルマの巣)エネルギーが作用して、

DNAが損傷して細胞が癌細胞に変異したりすると思っています。

感情を取り組む事は、生きて行く為に不可欠な事だと思います。



[245] 自分のまいた種は自分で刈り取る 光のかけ橋 
Date:2013-01-02 (Wed)

前にこう言う事を書いた事がありました。

神仏は道標を用意されてくれているのかもしれませんが、神仏は自分を背負って歩いてはくれません。

神仏は二人で歩いてくれるかもしれませんが、その道を選択して自分自身の足で歩いていかないといけません。


聖書には、原因と結果の法則を自分のまいた種は自分で刈り取るという言葉で表現されていますね。

カルマは原因と結果の法則みたいです。

善の種をまけば自分で善を刈り取り、悪の種をまけば自分で悪を刈り取る。

自分のまいた種は自分で刈り取ると言う事になるのでしよう。


神様や創造主は自分で作ったカルマは自分で乗り越えろというものかもしれません。

他の方に変わって代わりに行うカルマの解消は無理なようです。

カルマは機械的に処理されているような感じがします。

何故なら自分が体験しているから言えるのです。

自分はスピ系で良く言われている受け売りはしません。

自分で体験をして伝えているのです。

自分の都合によって、はい、カルマは解消されたというものはありません。

何回も言いますが、個人の地球の規模のカルマや宇宙規模のカルマを解消できると言うセッションがありますが、

そんなものはあてになりません。

あてにはならないと言うよりは、そんなものはないと思っています。


スピリチャルな事を目指している方もカルマを紐解いたとか、乗り越えた方はあまり出会った事はありません。

それでいて、スピリチャルな事を目指している方やスピリチャルティチャーでもカルマの事について本当の意味で知っている方はあまりいません。

生まれて来る目的の一つにはカルマの解消(乗り越える)だと言われていますから、

だから自分のカルマを開けたのは、偉くもないし特別な存在でもないのです。

ここを間違って受け取られたらいけませんね。


だから自分が体験して、初めて人に伝えられるものかもしれません。

何にしても自分が体験して、それを乗り越えて行った者しか伝えられる事はできないと思います。

ではどうやったらカルマの紐を解くか?

乗り越えていけるのか?

その為にはいろいろなやり方もあると思います。


生まれて来て今までの思い行いが記憶として深層意識の中にあります。

その深層意識を浄化する事は大切だとスピリチャルな事をしていたり、

また心理学者などはそう〜思っていると思いますが、想念体はカルマの巣のようなものです。

この想念体の中にある抑圧された記憶やエネルギーを解放する事が大切なんです。

これはチャネラーを目指している方についても言える事だと思います。、純粋な情報を取ろうと思ったら

想念体の中に抑圧された記憶やエネルギーの解放するのが早道かもしれません。

純粋なる情報と言う意味ではね。


コップの中にある水が濁っていれば、少しずつ真水をいれて行ったら、

コップの中にある濁った水は少しずつ綺麗になると思いますが、これでは随分時間がかかると思います。

水は沸騰したら水蒸気になって、上空にあがり、雨となって地上に降り注ぎます。

また水は冷えると氷にもなるのです。

その水がいくつも変化するのです。元は水なんですよ。

自分は良く思いは結果化けてくると言ったりしていますが、繰り返してくる連鎖を断ち切るのは、

カルマの巣と言われている想念体の中にある抑圧された記憶やエネルギーを解放して行くのが重要なんです。

その為には苦を滅する道があると言われているハ正道がありますね。

このハ正道を行っていくうちに、カルマの解消ができ、悟りに進んでいけるものだと思っています。


光のかけ橋 (日記)

深層意識の内部には日頃溜めつづけたネガティブなもの(恐怖、悲しみ、不安、怒り、)あまりお目に関りたくないドロドロしているものをいっぱい積め込んでいます。

このネガティブなものをいっぱい積め込んでる者は疲れやすいと言われています。

なんにもしなくても疲れやすいですし、または原因不明の病気とかあるいは自律神経に影響を及ぼし(心身の不調)誤魔化して生きていかないといけなくなると思います。

この深層意識の積め込んでいるネガティブなものを意識上に開放してあげて、ほったらかしにしておけば心の掃除にもなりますし心が澄んできます。

例えば炭酸の入った瓶の蓋を取ったらいっぱい泡が出てきて、出っ放しにしておけば泡もなくなり、

だんだん弱いあぶくのようになり、全て出尽くしてしまえば、

波のたたない湖面のように穏やかになります。

この想念体の紐をとき意識上にあげるのはなかなか難しいと思います。

自分の体験上、瞑想(他のワーク)とかしていて機が熟したなら

想念体に亀裂が入り(見性、悟り)とかいわれている事が起り深層意識から今まで生きて来て、

集めたものが意識上の表れてきます。

これは自分と向き合わないといけないから辛い体験だと思います。

瞑想、座禅とか(座り)修業していればおのずと表れ消えて行くものだと思いますから瞑想、座禅の本道目的にそって、行うようにしてください。








  次第に普通の意識状態を超えて
Date: 2016-05-19 (Thu)
バーソロミューの書物には、このように記載されていますね。

聖フランチェスコは病床で、心の境界線が少しずつ崩れ、高熱にうなされる状態のなかで、

聖フランチェスコは愛したいけど、どうして愛したらいいのか解らないというジレンマ・・・・。

全身が疑問のかたまりのようになって、何日も苦しみが続き、不安が増し、

イライラと絶望がつのり、もうすぐ夜が明ける頃、外窓の向こうで、一羽の鳥が鳴いたそうです......。

その鳴き声をフランチェスコは今までとは全く違うように聴こえました。

その鳥の歌声のパワーによって、ついに・・・・悟ったと言うのです。


自分の見解としては、フランチェスコはその鳥の鳴き声が今までとは全く違うように聴こえたとありますが?

※我をわすれて、そのものそれになりきった時、何らかの感覚の縁にふれて、

それまでに聞いていた鳥の声とは全く違った声として聞いたのです。

意識と無意識にある壁?

境界線が崩れた時にそのように感じると思います。

そのような状態になった時に現在聞いていた声や見ていた光景がまったく違がって見えたり聞こえたりするかもしれませんね。

本来は誰もが無垢な状態で生まれて来たのだけど、長年浸み付いて付着したものが、

少しずつ取り除かれて行った時に、ずっと今まで見ていた光景や聞いていた音がまったく違って見えたり聞こえたりします。

それは本来の自分を取り戻して行く時にそのように感じるかもしれません。

だから想念体かに亀裂が入らなくても、そのように感じてしまう事もあると思います!?


本来仏性を持ち合わせているのが人間です。

本来仏なのです。

死んで仏になるのではないのです。


無理なく真理が実践できた時に菩薩行が整ってくると高橋信次師は言っておられましたからね。

何もやりもしないで如来、菩薩ではないのです。

自称天使また如来、菩薩だとしている方は、それなら光り輝かなければならないと思いますよ。

そういった方は自分の幸せの為だけに生まれて来たのではないのです。

そのような方は教師として心の教えを説いたり、それに真理を実践して行かないと何もならないのです。


一部の偽り者の為に真理が穢され歪められ、手垢のついたものとしてスぴ系全体が妖しいと思われてしまうのです。

他人はどうであれ、自分自身の環境を受け入れ、その環境の中でどう行動するか?

試されているのでしようね。

自分を見失わず、神と共にいる。神と一つと言うように実践して行く事がなによりだと思います。

それには自分の心の手綱をしっかり持っていかないといけませんね!


話はそれましたが、フランチェスコは偉大な聖者です。

でも、たとえそうであっても、我々と同じ人間です!!

誰もがフランチェスコの足跡を辿って行くならば、きっと同じような体験ができると思います。

準備が整った時に誰もが体験する事になるかもしれません。

それが今世になるか?

来世、来来世になるかは神のみぞ知るところだと思います。


精神集中が深まってくると次第に普通の意識状態を超えて、そういう心理状態が限界を超えて、境界線が崩れ

最後に一瞬の飛躍があって、その鳥の歌声のパワーによって、ついに・・・・聖フランチェスコは悟ったのです!?

またこうも言えるかもしれませんね。

そのように一種の忘我状態になった時に想念体に亀裂が入って、エクスタシ―状態になり?

意識的な自分を超えるなにものかがあり合理的な考えだけがすべてではない。

そのものになりきって、(ものになる)ところに本来の自己が現れるものだと思います!

このように聖フランチェスコは苦痛の中から悟って行ったのです。

もがき苦しみその異常な環境がなかったら聖人にはならなかったと思われます。

たった一人で悩みもがき苦しみ全身が疑問のかたまりのようになって、悟りを開いたみたいです。

それをたった一人で、悟りを開いたとされる聖フランチェスコはやはり偉大なる聖者だったと思います!!




  まあるい心を取り戻す。
Date: 2016-05-19 (Thu)
気のエネルギーを感じる方もいれば、感じない方もいますからね。

西洋医学だけがすべてだと思っている方が結構多いのです。

でも、霊の影響で病気の現象、感情の病気、カルマの影響もあるんですよ。

信じる者は救われると言うことわざがありますが、

もしかしたら信じられなくなっているのは、宗教での問題やカルマの影響かもしれませんね。

実は気質はカルマの影響があるのです。

そう性格に現れているのです。

いくらうわべを繕っていても、土壇場になると本性が現れるのです。

苦しい流れ作業などしていれば、一発で解ると思います。

子供のような純真無垢な心でなくては天には戻れないのでしょうね。

いつも言っている事なんですが、自己中を無くして動物習性をなくして

まあるい心を取り戻さなくてはなりません。

それには超作する事が良いのです。

損得感情を捨てて、行えばきっと財産宝物になるんですよ!!


マルコの福音書10章13節から16節まで(新改訳聖書)

さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。

ところが、弟子たちは彼らをしかった。イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。

「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。

まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」

そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。




  自分が自分をする
Date: 2016-05-19 (Thu)
進化の過程では、自分が失われて無意識の中の別の赤の他人が出現するような事を言っていた宗教家の方がいました。

実はそんな事はなかったのですが、そんな宗教家の方が言っておられたから

少しずつ殻が(想念体の亀裂)破れてくると自分の存在が失われてきて、

別の何者かになるようで少し怖かった!

自分を明け渡すのは、自分の存在自体が失われるようなもの

後に解った事なんだけどね、本質的なものは何も変わらなかった。

そんな事があって、自分が体験して何でも鵜呑みにする事は非常に危険だと思いました。

たとえ何万人の信者さんがいる創立者や、また本山の老師であろうとも何でも鵜呑みにする事は危険だと思いました。

自分が体験して初めて、理解ができ知ると言う事に繋がってきます!


ある宗教団体の信者さんなどは真理のペーパを暗示して、試験を合格したらそれで同等の霊格が付くと言っていました。

教団がそのような教えかどうかも解らないけど、これなどは絵に描いた餅

いくら食べたくても、絵に書いた餅は食べれない。

本物の餅を食べて体験して、初めてどんな味か解るのです!!

だからいくらペーパをまる暗記したところで、何も体験もしないで知ると言う事はないのです。


ほんと初めの頃は未知なる領域で、自分の前には道がないけど、

自分の後ろに道ができるという状態、自分で開拓して体験して知ると言う

何事も体験しないと本当意味で知ると言う事はできないけど、

なんだか自分自身の存在が失われていくようで、怖い思いをした事がありました。

今なら死んでも死なない命を生きろと言う意味も理解していますが、その当時ではほんと自分の存在が失われないか不安でした。


座蒲の上で死にきれと良く言ってたもんだと思います。

自分の存在が失われていくそれは死に通じるようなもの

死に対して、不安を持っている方はこのように自分の存在が失われていくのに対しての恐怖があるのでしよう。

生きているうちに死んでも死なない命を生きると言うこの大切さを理解する方もまた少ない。


  文字や言葉では伝えることができない
Date: 2016-05-18 (Wed)
今からおよそ2500年前にお釈迦様が悟りを開かれて、

お釈迦様の悟りが修行僧の心から心にと伝わったと言われがあります。

実際は言葉や文字では、究極のところは伝わりません。

釈尊の教えの真髄は、文字や言葉では伝えることができないと思います。

お釈迦様が霊鷲山の集まりで、何も言わずに、蓮の花をすっとお示しになりました。

しかし、その意味は誰にもわかりません。

その時に、それを見て摩詞迦葉尊者お一人がにっこり微笑まれました!?

この摩詞迦葉尊者ただ一人だけが微笑まれたと言うものでした!!

このお釈迦様が一輪の蓮の花をお示しになり、見てにっこりされたと言う事は、

お釈迦様の悟りが摩詞迦葉尊者の心に伝わっていったものだと思います。


心から心へと、直接体験によってのみ伝えられるとするのが、教外別伝の意味するところと言われています。

したがって、教外別伝とは教のほかに別に伝があるのではなく、

師から弟子へ、心から心へ直接の体験として伝えることみたいです。

また師から弟子へと伝承するというのは、弟子の目覚め(悟り)にほかならない とするのが教外別伝の内容と理解していいと思います。


弁道話の中に道元禅師はこう言っています。

インドや中国のような文化の優れた所に住んでいる人間は、悟る事ができるでしょうが、

国土も素質も劣った人でも悟る事ができるでしょうかと言う問いに、道元禅師はこう言いました。

人は素質の劣っている人も優れた方でも、区別なく等しく悟る事が間違いなく出来ると言うのです。

仏法伝授する事は本当に悟った人を師匠にとせねばならない。

文字のせんさくに明けくれる学者は、師匠とするには不足である。

それでは盲が大勢の盲を導くものようなものです。



  心の手綱をしっかり持つ
Date: 2016-05-18 (Wed)
三体一体の言葉を使うのは適切かどうか解らないですけど、神仏、師、我 三つのものが一つになること

どれ一つ欠けても悟り(見性)成就はできないと思います。

やはり開ける方はあらゆる時代に修行して来たみたいですね。

だからと言って、今世が悟り(見性)成就ができないと言う事はないと思います。

誰であっても 求めるものは可能性はあるのです。


マタイによる福音書 7章7〜11節

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。

魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。

まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。


人間は神の子、すぺて平等に神性が備わっているのです。

それと悟り(見性)をしたからすべてが終わりではないのです。

その後が大切なのです!!

神仏のご加護、師の恩恵によってのみ開ける事になると言っても過言ではないと思っています。


  流れの中で、流されずに座って行く素晴らしさ
Date: 2016-05-17 (Tue)
世のなか常に動いています。

その流れの中で、流されず立ち止まった事はありますか?

たった一人で、坐蒲の上で立ち止るのも良いものです。

朝昼晩の中に、気が変わる瞬間があります。

その瞬間もただ手放しをして、座禅なら座禅をする事、それが座禅したと言うことかもしれません。

座禅をしているつもりでいても眠っているか?考え事をしているか、二つに一つなのです!


大自然の中で、たった一人時に流されず、気が変わる時の変化もただ壁を見つめ

思いを手放しをして、ただ座っていたのです。

世の中は常に動いていて、また流されている方もいますが、

その流れの中で、流されずに座って行く素晴らしさを体験する事はとても有意義な体験なのです。

身体に鷹の爪みたいに食い込んでいた、エネルギーが音と共に抜けて行くのをただそのままに手放して行く。

これなどは長い年月にかけて付着したものが、少しずつ取り除かれ浄化されて行くのです。

宗教体験とは、体験があって初めて語れるのです。

体験していない者は、その者の実体験を通して感じるしかないのです。

受け売りではなくて、実体験として体験してほしいです。


内山興正は生命の実物に目覚めて生きる深い坐禅、骨格と思いを手放す事とおっしゃつています。

座禅の和尚さんが、こんな事を良く言っていました。

座禅も長い時間を坐れるのは若いうちと言っていました。

接心になると朝4時から夜9時までの集中座禅なのです。

若さの特権ではないですが、ほんとこれぐらいの長い集中座禅ができるのは若い時だけだと思います。


  過ぎ去った過去を省みる
Date: 2016-05-17 (Tue)

ある者は麻薬、覚醒剤、シンナー、ハーブ、強姦、詐欺、売春、殺人、

このような裏社会と言うか?裏の世界を通って来た者、

地上ではありとあらゆる罪穢れの部類に入ると思います。

でもね、自分は言いたい、どんなに罪、穢れていようが乗り越えていけるのです。

ある方にとっては、今世か来世か来来世になるか解らないですが、

どんな罪や穢れがあろうとも清浄なる魂には、付着しないのです。

たとえ付着したと思えても、綺麗に取り除く事ができるのです。

もし汚れたとしても取り除けるのです!!

汚れた皿は綺麗に洗えば、そこには綺麗な皿だけが残るのです。

泥水が濃ければ濃いほど綺麗な大輪の花を咲かせられるのですよ!

また深くおしつけせられているポールは、反動によってより高くボールは跳ね上がるのです。


罪や穢れは本来は無いのです。

それを集めたのは他ならぬ自分なのです。

陽にあたっていない影を日向にだしてあげる事です。

そうしたら、影は影では居られなくなるのです。

また原因不明の病気などは、おもに感情の抑圧されているエネルギーだと思っています。

その感情エネルギーが引き金となってDNAの変異を引き起こすのだろうと言っている科学者もいるのです。


日頃あまりおめに拘わりたくない奥深く溜めつづけた、(不安恐れ、悲しみ、憤り、憎しみ)

また抑えつけていた反吐がでるような、誰にもみせる事のできない秘密が誰にもあると思いますが、

もう一度過ぎ去った過去を省みて、抑圧することなくあるがまま手放しをしていけば良いと思います。

そうして心の問題を克服し新たに良いカルマを(思い行い)を作っていける事が大切なのです。


でもどうしても良くならないような病気などは、カルマがあるからです!!

カルマを持っいる方はカルマが解消されないうちはどうにもならないようです。

自分は想念体を開いていますから、カルマの巣と思われる想念体を開いて、

抑圧されている感情エネルギーの解放がいかに大切なのか解っています。


自分はクンダリ二―悟り(見性)、明けの明星、霊道法、平行次元語など体験をしていますが、

これは自分にとっては伝える為の方便にしかならない。

自分としてはどんな体験をしょうが、心の霊性が伴っていないと何もならないと思っています。

体験はあくまで体験なのです!

心の進化成長を目指していかないといけません。

それと何回も言いますが、一部の方だけが選ばれているのではありません。

他の方もちゃんと持っているのです。

ちゃんと内在しているのです。

本来悟った者なのです。

それを開くだけなのです。人は神の子と言われますよね。

だから同じ人間だし、同じ魂を持っているのです。

但しインスタントではありません。

悟りの世界では、そんなに簡単にはいきません。

簡単と言っている方は、それは霊能開花の事をいっているのだと思います。

殆どの方が、ここで止まっているようです。

開祖や修行者を見れは、解ると思いますよ。

それをも通り過ぎて行ったのです。

だから霊能と悟りの違いがあるのです。

それと他力や自力とか良く言いますが、自分の足で立ったなら、自分で歩く

一歩、一歩確実に歩いて行くだけです。











  処理する過程での苦しみ
Date: 2015-09-07 (Mon)
悟り(見性)体験の後にカルマの洗い直しがやって来ます

洗い直しと言っても肝心な事は、ニ通りの対処の仕方があります。

一つは怖れに対して向き合う事、もう一つはその恐れか逃げ出す事です。

その恐れに対して、破壊するか破壊されるか二つに一つなのです。


例を出すとサイダーの如く溢れて出て行く抑圧されているエネルギーを解放する途中に

とても怖くなって、逃げたり、押さえつけたりすると元のもくやみになってしまいます、

テープレコーダに録音されているテープにもう一度ど巻き戻しながら録音されているような感じですからね。

だからカルマを洗い直しをしていると思っても、またその印象やイメージを掴んで手放さないと、

いつまで経っても、自分の手から離れていかないのです。

それは洗い直しと言うより、もう一度同じものの上に撮影されているようなものなのです。

だから座禅なら思いを手放し、瞑想ならイマジネーションに成り切る事が大切なのですグッド!


本来開いている悟りを今開くだけなので、開いたから何かなると思われそうですが

開いたからと言っても何もならないのです。

何にもならないのなら。何もしない方がましと言うかもしれません。

確かに何もならないかもしれませんが、その何もしない方がましと言っている方はもっと何もならないと思います。

何を言いたいかと言いますと、本来無垢なままで生まれて来ました。

それが大きくなるにつれ、習慣、思想、癖、観念などいっぱいくっつけて来たのです。

それをもう一度、ジャガイモをゴシゴシ綺麗にするように、

自分のチリやアカを取り除いたなら、本来の自分が現れると言いたいのです。

だから本来そのようであったのだから、何かになったと言うよりも何もならないと言うのです。

宗教家さんなどは光一元といいますが、本来は健康体で光輝いていたのです。

長い年月と!!共に、腐蝕したりこびり付いたチリやアカを落すだけで、本来の自分を取り戻す事になるのです


まず自分の中に怒り、憎しみ怖れなどがあれば、ちゃんと向き合って心調べをしてほしいのです。

それと身体に症状に出ている方がいれば、心調べをする事はもちろんなのですが、

最近は身体の声が聴いて、ヒーリングされているティチャーさんもいますからね。

それに身体の声が聴いて癌や奇病や難病に解放された体験談もあります。

それは自分が良く言っている心の中に不浄な抑圧されているエネルギーの解放事なのです。

これがチャクラやチャクラに対応している内臓などをきたしているのです。

その閉じ込められている感情エネルギ―を解放してあげれば良いのです。

人生を飽きらめたり、また病気などによって望みを絶たれて苦しんでいる方に、

もう一度本来の輝かしい自分を取り戻して再生してほしいのです。

その為にはまず、今まで生きてきた中での思い行いをもう一度見つめ直し、心調べから始めたら良いのです!!


  新たに生き方を変えて軌道を変える。
Date: 2015-09-07 (Mon)

想念体というものは、テープレコーダーと同じように、二十四時間テープが回転し、

その方の想念と行為を記憶し続けていますパー

映写機で言うならば、一つのテープの中に色んな映像が刻み込まれています。

また映写機にフイルムを取り替えて映すとそこには映像が写ります。

取り替えるって言っても、取り替えが出来ればよいのだけどね!?

ある方などは取り替えると言う言葉を使っていますが、取り替えと言う言葉は今までの思い行為を変えると言う意味で軌道を変えると言うことなのでしょう。

今までしてきた思い行為をガラッと変える。

ネガティヴな思考から、ポジティブな思考に変える。

ここでもう一度い!!いますが、その前にフイルムに刻んでいる思いや行いとして、エネルギーが残っているのです

だからフイルムを取り替えて映すと言うのではなくて、新たに今までのして来た思い行為を変えたら、

別の映像が映ると言うもなのですが、でもその前に刻んでいる思い行為のエネルギーがあるのです。


ある書物にの中に記載されていましたが、エマーソンはアメリカの哲学者と言われた人みたいでした。

とても面白い事を言っていました。

全ニコニコての現象は偶然に起きるのではなくて、後ろから押し出されてくると言う事と言われていました。


想念体深くに抑圧されているエネルギーがある限り根本的な浄化はどうですかね?

だからこれは今まで記憶され刻みこまれている一つのテープの中に、その続きに新たに生き方を変える。

そういう意味での映像を取り替えて映すと言う意味での取り替えと言わないとね!

それで本来は病気もなく健康体、輝く身体だと行っても、当の病人は何のこっちゃあと思います。

今現象に悩まされている方などは、人間は本来健康体であると言っても誰も理解ができないと思います。

違うフイルムとは生き方を変えろと言う事なのでしょが、

でも、自分の体験上濁ったコップの中にも新たに真水を入れてもなかなか澄んだお水になるのには時間がかかります。

それよりも抑圧されている感情エネルギーを解放すれば、閉じ込められていた感情エネルギーが解放されていくのです。

今まで生きて来て、想念と行為を記憶し集め続けた抑圧されている感情エネルギーの解放すれば、

それに伴って、多くの原因不明の難病などは消えて行くと思っていますパー

そして想念体はカルマの巣と思っています。

自分は想念体の掃除がいかに大切か体験上良く理解していますからこれからも言い続けて行くのです。


  どんなに汚れがあったとしても人は再生できます。
Date: 2015-09-07 (Mon)
人間は生きている限り想念と行為を記憶し続けています。

本来真っ白な何もない無垢な想念体を持って生まれて来ましたが、

生まれてこのかた想念体に色々な思い行いが撮影されているのです。

この想念体には、カルマの巣みたいにサイダーの泡如くエネルギーが詰まっています。

サイダーの栓を抜いて、その中からいっぱいのカルマのエネルギーがサイダーの泡如くあがってきます。

これらの抑圧されている感情エネルギーを解放する事が、本来の自分を取り戻す事になるのです!

奥深くしまいこんでいる、また抑えつけていた感情エネルギーをもう一度、湖面に(意識)上に浮上させ解放してやれば、罪や穢れは浄化されて行くのです!!

ただ、想念体を開く事は現在では難しいと思いますから、日頃あまりおめに拘わりたくない奥深く溜めつづけた、(不安恐れ、悲しみ、憤り、憎しみ)

また抑えつけていた反吐がでるような、誰にもみせる事のできない秘密が誰にもあると思いますが、

もう一度過ぎ去った過去を省みて、抑圧することなくあるがまま手放しをしていけば良いと思います。

そうして心の問題を克服し新たに良いカルマを(思い行い)を作っていける事が生まれて来た意味もあるのです。


  自分で作ったものは、自分で作り変えれるのです。
Date: 2015-08-02 (Sun)
誰も口を閉ざしているものについて自分なりの見解を持っています。

ある者は麻薬、覚醒剤、シンナー、ハーブ、強姦、詐欺、売春、殺人、

このような裏社会と言うか?裏の世界を通って来た者、

地上ではありとあらゆる罪穢れの部類に入ると思います。

でもね、どんなに罪、穢れていようが、

心の図書館に記載されているように、泥水が濃ければ濃いほど綺麗な大輪の花を咲かせられるのです。

バケツの中に、押し込められたボールはその圧力の反動によって、
小さくもあり、大きくもなります。

深く押し込まれたボールはより高く上るのです。

そんな罪穢れを持っているあなたは誰よりも高く上れる可能性を持っていると言えます。

体験とするならば間違った道はないと思いますが、もし迷った道であるとするならば引き帰せば良いんです。

途中で、谷に落っこちたり、怪我して歩けなくなった時は、

傷が癒えるまで居れば良いのです。

旅の途中には、スカッとする風景もあり、長く続くトンネルもあります。

また眼を覆いたくなる事もありますが、一つのべろーんとした風景で見て、

人生は全体で象(かたど)っているのです!!


どんなに汚れた思えても、清浄なる本性、心の空性は清浄空である本性は、

けっして失われたり、そこなったり、曇ったりすることはないと思います。

気体(蒸気)になったり、液体(水)から固体(氷)というように、三つの相に変化する。

気体、液体、固体という三つの相に変化しても、水の本性H2Oには変わらないといっています。

水は低温になったら固体(氷)となります。

また水は高温度(蒸気)になって沸騰したら、水蒸気になり、また雨となって地上に

降下によって再び液体(水)や固体(氷)に変わります。

水は高温度(蒸気)になって沸騰したら、水蒸気になり、また雨となって地上に

降下によって再び液体(水)や固体(氷)に変わります。

気体、液体、固体という三つの相に変化しても、水の本性H2Oには変わらないようです。。

想念体に例えるなら、気体、液体、固体という三つの相に変化するように、

想念の集められた物のエネルギ―も変化していくと思っています。


ゴミを捨てるのに、中身を見る必要はないとグルはおっしゃるかもしれません。

それは正しい事なのです。

でも、どんなゴミでも必ず捨てれる事ができると、アドバイスして貰えるグルは必要です。

グルによっては、そのゴミ袋の中にあるゴミはいつかは消えると言う方もいますが、

そんな事はありません。

軽いものならともかく、ほおっておいて消える事はないのです!

異熟しての変化ではそのように思ってしまうのでしょうかね?

ゴミ袋の中から取り出す時には、何が入っているといちいち探さなくてもゴミを手放しにすれば良いのです。

ゴミの種類によっては、ゴミ袋に傷が付いたり、ゴミ袋がいっぱいになって

せき止められているダムのように、溢れんばかりの水が溜まって危険なのです。

ここまで来ると徐々に強いエネルギーの放出が起こっていると思います。

場合によっては、身心には強く影響していて、原因不明の病気、奇病、精神をきたしたり、

また精神分裂を起こしたりしていて、人生を諦めている方もいると思います。

そんな絶望の中にいる方にあえて言います。

再生できるのです!!

その為には健全な精神、健全な肉体を持ち合わせていないと難しいと思いました。


お皿の上におかずの汚れものがあれば、洗えば綺麗になって皿だけになります。

そのおかずの汚れものを取り除く事によって、綺麗な皿だけになります。

パーそのように原初土台は不純物がたとえ付着したとしても浄化する事ができます

悪しき習慣や知識や自覚は想念体にカルマのエネルギーとなり、

異熟され、実を結び、結果となって自分に返ってきます。

たとえそのような現象が現れていても、清浄なる本性はけっして失われたり、

そこなったり、曇ったりすることはないのです。

人間の心も悪しき習慣やカルマはブーメランのように自分にかえってきます。

でも、その本性である本質土台は変わらないのです。

現象に振り回されて、人生を棒にふらないでほしい。

まして生命を絶つ事はしないでほしいのです。

自分で作ったものは、自分で作り変えれるのです。


心の図書館(引用)

泥水が濃ければ濃いほど、はすの花は大輪の花を咲かせます。

泥水とは人生におきかえれば、つらいこと、悲しいこと、大変なことです。

ほとんど泥水ではなく、真水に近いようなきれいな水である場合、

蓮の花は本当に小さな花しか咲かせません。

大輪の花を咲かせるためには、ものすごく汚い泥水が必要です。

蓮の花は泥水の中からしか立ち上がってこないのです。







  根本的な浄化
Date: 2015-03-25 (Wed)
最近は沢山のブロック解消なるものがいくつかあります。

ブロック解消とか良く聞くと思います。

それでデタ―の入れ替えとか良く聞きますね。

でも、デタ―自体はなくなりません。

もし借りにブロックを入れ替えられるとしても、それは再構築と言う意味での事だと思います。

勘違いしている方がいますが、もとのデタ―を取り除いて、新しいデタ―を入れ替えると思っている方もいるのです。

ここをしっかり説明しないと勘違いされる方がいますからね。

デタ―は出来れば自分で入れ替えた方が良いと思います。

デタ―を入れ替えてあげる方も良いものも悪いものもカルマになってしまうかもしれませんからね。

入れ替えと言っても古いトタンに上辺に新しい塗料を塗ったような感じがしますが、

それに対して引っこ抜き取り消して、新たにデタ―を入れるものもあるようです。

これも引っこ抜き取り消しが出来たとしても古いデタ―自体はなくならないと思いますよ?

あくまで、古いデタ―の影響があまり気にならなくなった。

囚われなくなったと言う意味で、再構築だと思っています。

デタ―の中にある抑圧されたエネルギーはざんぜん残っているのです!!

実はこの事が解っている方はあまりいないのです。


思うんだけどね、デタ―の入れ替えると言っても

デタ―の中にあるわりと弱いエネルギーならそれでも現実が変化して奇跡が起ったと思うかもしれませんが、

強いエネルギーを持っているものは、なかなか直ぐには変化はしにくいと思います。

ここがブロック解消して、変わった、あまり変わらなかった判断が分かれるところでしょうね。

それとティチャーによっては見立て違いとかもあると思います?

デタ―をいくら入れ替えられたとしても、古いデタ―はなくならない

デタ―には抑圧されているエネルギーが残っているのです!

ここを押さえておかないと、肝心な事は見えてこないと思います。


自分の見解は入れ替えると言ってもね、

汚れているコップの中の水を綺麗にするのには、いくら真水で足しても

コップの中のお水はなかなか澄んだ水になるのには時間がかかります。

あまり汚れていない水なら綺麗になるのは早いと思いますが、


例えを言うならばサイダーの泡如くカルマ〔因縁〕抑圧されているエネルギーを噴出し出っ放しにしておけば、、

だんだん弱いあぶくのようになり、全て出尽くしてしまえば、波のたたない湖面のように穏やかになります。

いつかは綺麗な湖面のように、月を移す鏡のように綺麗になればカルマが浄化されて行くと思いますよ。

また別な表現をすれば詰まったパイプを掃除したら、閉じ込められていた水が出て行きます.

本当の意味での心の掃除、浄化が行われると思っているのです。


それには想念体を開いて、カルマを乗り越えて行くのには、ある方にとってはとても厳しくもあり、

乗り越えていけそうにないと思ってしまうかもしれません。

強い魂修行して来た方は健全な精神、健全な肉体が整っていないと難しいかなぁと思ったりします。


どんなに汚れた生き方をしても取り返しのできない事をしても、

神聖なる魂は汚れ、付着はしないのです。

汚れなき神性を持った存在です。

どんなに辛く、絶望の中にいても光を求める者は希望と勇気があります。

光を求める方は、神の見えざる手はあるのです。



■ 悪しき習慣やカルマを終焉を迎えさせるためには

Date: 2014-01-01 (Wed)

自分の体験上、伝えたいものの一つでもあるのです。

清浄なる本性、心の空性は清浄空である本性は、

けっして失われたり、そこなったり、曇ったりすることはないと思います。

気体(蒸気)になったり、液体(水)から固体(氷)というように、三つの相に変化する。

気体、液体、固体という三つの相に変化しても、水の本性H2Oには変わらないといっています。

水は低温になったら固体(氷)となります。

また水は高温度(蒸気)になって沸騰したら、水蒸気になり、また雨となって地上に

降下によって再び液体(水)や固体(氷)に変わります。

でも、その水の本性は変わらないのです。

またお皿の上におかずの汚れものがあれば、洗えば綺麗になって皿だけになります。

そのおかずの汚れものを取り除く事によって、綺麗な皿だけになります。

そのように原初土台は不純物がたとえ付着したとしても浄化する事ができます。


悪しき習慣や知識や自覚は想念体にあるカルマのエネルギーとなり、

異熟され、実を結び、結果となって自分に返ってきます。

たとえそのような現象が現れていても、清浄なる本性はけっして失われたり、

そこなったり、曇ったりすることはないのです。

人間の心も悪しき習慣やカルマはブーメランのように自分にかえってきます。

でも、その本性である本質土台は変わらないのです。


では、その悪しき習慣の循環原理を終わらせるのにはどうすれば良いのか?

どぶ水はどぶ水で洗っても綺麗にはなりません。

ある師家の方などは、それは血で血を洗うようなものだ。

血は水で洗わなければ、決して綺麗にはならい。

その血を洗い流す水が、無の字なのであると言っています。

そのためには本性の土台に到達することがなによりも大切な事だと思います。

すべての現象は心の中の出来事は現実経験される対象でもあり、現れ続けるみたいですが、

悪しき習慣やカルマを終焉を迎えさせるためには克服する必要があると思います。






  感情のエネルギーの解放
Date: 2015-02-05 (Thu)
深層意識の奥にしまい込んでいるブロックや感情のエネルギーの解放がいかに大切かという事を伝えたい!!

原因結果の法則があるのですが、自分の思いや行いは責任が伴います。

それは自分が選択して、選んだものだから、

乗り越えるのも自分自信で乗り越えて行かないといけないのです。

自分で作ったものは自分で作りかえれるのです!

誰も肩代わりできないし、代って身代わりなどはできないのです。

でも、身代わりになったり、肩代わりしている方がいると言いますが、

何を持っての?真実なのか問うてみたいですね

その肩代わりや身代わりなど出来ない事を自分は良く解っているのです。

それだけ厳しいものなのです。

しかしそのカルマを開けたと言う方は少数しかいないのが現実だと思います。

だから個人の地球のカルマ、宇宙のカルマと言ったって、肩代わりの解除などできないのです。

自分はカルマの巣を開けているから、解るのです。

まやかしやええかげな事は言うつもりはありません。

ただ、精神的に進んでいる方は。結構カルマが早く返ってくるみたいな感じがします。

それと機械的に処理されているようなものですが、これは宇宙の法則には原因や結果の世界が真実なのだと思います。


想念体を開くのは、今現在ではこれはとても難解なものかもしれません。

それなら出来る範囲で深層意識の中にある負の感情エネルギーを解放してしまうものを見つけて実践する事が良いと書いたことがあります。

日頃あまりおめに拘わりたくない奥深く溜めつづけた、

また抑えつけていた反吐がでるような、(不安恐れ、悲しみ、憤り、憎しみ)

誰にもみせる事のできない秘密が誰にもあると思いますが、

その封印している秘密がイメージと伴って出てくる不浄なエネルギーを放出していけば、

原因不明の難病や運命改善にとって、とても重要なメソットになりうるものだと思います!


良いカルマを作って行く為の土台にする
テーマ:心の世界と繋がる癒しのエネルギーブログ 光のかけ橋

深層意識にある重圧されている不純物や不浄なエネルギーを生起させて解放してあげれば、

現在医学で原因不明の難病とかに対して、かなり癒されるのではないかと思っています

心理学でも不健全な感情を取り組む事は、あらゆる病気自体から解放されるきっかけになると聞きます。

カルマが原因の病気の場合は現在医学の範疇にはないようですが、

これなどは本人のカルマの解消に設けられた試練であり、魂の向上に役立つものだから

根本的に解決するのにはそれなりに時間を要するように思います。

また想念体を開いて、負のエネルギーを解放して行く時には、

カルマが終了して行くためにプロセスが始まったと言うものかもしれません


ほとんどの原因不明の難病病気は、想念体の中にある(カルマの巣)エネルギーだと思っています。

細胞やDNAにしたって、想念体の中にある(カルマの巣)エネルギーが作用して、

DNAが損傷して細胞が癌細胞に変異したりすると思っています。

感情を取り組む事は、生きて行く為に不可欠な事だと思います!


だけども想念体を開くのは、これはとても今の現在では難解なものかもしれません。

それなら出来る範囲で深層意識の中にある負の感情エネルギーを解放してしまうものを見つけて実践する事が良いのです!!

日頃あまりおめに拘わりたくない奥深く溜めつづけた反吐がでるような、

誰にもみせる事のできない秘密が誰にもあると思いますが、

その封印している秘密がイメージと伴って出てくる不浄なエネルギーを放出していけば、

原因不明の難病や運命改善にとって、とても重要なメソットになりうるものだと思います。

本当の意味で、カルマを改善していって新たに良いカルマを作って行く土台にする事が非常に大切なのです。


  毒素が解放されて行く?
Date: 2015-02-05 (Thu)
昔、ブログを通して知りあった方がいますが、

この方が言うのには、霊動法をしていると顔が真っ黒みたいになるような事を言っていました。

多分これはカルマが動き出して、その毒素が解放されて行くのかなぁ?みたいな事を言っていましたね。

また霊動法を教えている講師なども、同じような事を言っていますね!!

だから霊道法の事について、自分が言いたいのは深層意識からの毒素が解放されて行く事を前提にして

何とか少しでも為になれたらと思い、あえて霊道法の事について書いているのですグッド!

だから興味範囲や自分の自慢話しの為にそんな事で話しているのではないのです。

また神伝禊法の書物には自分自身の意識の奥から少しずつ呼び起こしていく、

呼び起こした意識は、思い荷物のような心理である。

泣き叫びたいような心理である。

最初は強い感情が出やすいと書かれています。

自分が良く想念体の事について書いていますが、

この想念体の中にある不浄なエネルギーの解放がいかに大切か何回も語っています!?

原因不明の難病や運、不運などは、だいたいが想念体に刻まれている思い行いなのです。

想念体の中にある不浄な(不純物)エネルギーが熟され、いつか躍り出て来るのです。

思いは行い、結果化けてくるのです。

今目覚めて、生き方を変える決心をし、

想念体の中の不純物を取り除いて、本当の意味でニユートラルで生きて行ってほしいのです。

永遠の今に目覚める事がいかに大切なのか?

その為には気づきの大切なのです。

業を背負って生きて行くのか?

また来世・来来世にまで持ち込むのか?

その責任は全て自分の選択なのです。

それを手放しにして解放しないと、いつまで経っても繰り返して巡ってくると思っています。


本来なら霊的進化の為の技法なのでしょうが、技法を行っていると副産物として難病や病気にたいし、

解放されると思ったりしています。

まぁ〜人間にはいろんな可能性があるんだと思いました。

実際は奥が深くて、カルマの解消や霊言も出てきたりすると言われていますから

独学で行うよりもちゃんとした指導者や専門家の下で、行う事が一番安全で良いと思います

ほんと諸刃の剣みたいなところがありますからね。

無意識状態にして、掌が震動するようにしたら割と簡単に発動すると思っています。


■ 霊道法とは、
Date: 2011-04-25 (Mon) 光のかけ橋

人間は肉体だけではないと思わせる一つかもしれません。

興味があるかたはまず、期待をせずに、霊子術を実行されたらと思います。

実習して行くと、だんだんと身体がユラユラと揺れてくるのです。

身体が動きたいままに任せてユラユラ、グルグルと動いて行きます。

霊子顕道法の中の飛動にもありますが、床から離れてて飛び上がるようになる。

その度合いが激しくなると、室内を飛び回りはじめるという激しい運動に初めはびっくりするかもしれません。

でも、徐々に激しさはおさまって行くと思いますよ。

実際はこの運動は、これがとても気持ちがいいみたいです。

揺れてくる場所は手や腰の辺りであったり、眼球や首だったりと色々みたいですね。


この霊子術は自己の霊が発動して身体の一部、または全部を震わす術だそうです。

この中に「布瑠部 由良由良止布瑠部(ふるべ ゆらゆらとふるべ)」というものがありますが、

布瑠部」は“震え”のことのようです。

松本道別(霊学講座)の中にも記載されています。

自動療法 本能療法 形式に多少の差こそあれ、何れも霊道の一種たるに過ぎないと記載されています。

他の方も活元運動なるものをやっていて「貧乏ゆすりに似てるかも〜」なんて書いていますが、

自分としては霊道と言う呼び名は妖しくドロドロしたものと思われますが、

無意識によくしている貧乏ゆすりみたいなもので(失礼)と光のかけ橋に書いています(笑)

でも、奥が深くて、カルマの解消や霊言も出てきたりすると言われています。

実際は呪文も道具もいらず簡単に実修できるもので、初心の方でも殆どの方が成功すると思いますよ。

神道系の修行法にもあるようなので、専門家や霊動法専門道場に師事される事を望みます。


  宗教体験
Date: 2015-02-05 (Thu)
山田無門老師もこう述べられています。

隠室に独参して、門答する為に入室しての帰りに、本堂のイチョウを見たときに、飛び上がるほど驚いた。

私の心は忽然ととして開けた。

無は爆発して妙有の世界が現前したのです。

隠寮に走って、参禅したら、公案の問題は出せれたが、その場で解決された。

すべては新しい。すべては美しい。すべては真実です。

すべては光っている、そしてすべては自己である。


仏教の中にも悟りとか昔から伝えられたリ、一度は聞いた事があると思いますが、

これは仏教の開祖さんとかが、経典にも残されていますね!

こういった悟り体験は絶無に等しいというものみたいです。

それは今の時代ではそういった悟りを開く事は難しいとされています。

それには師の恩恵なくして、悟れる事はないと思いますし、

神仏のご加護がなければ、悟る事はできないと思います。

正道を実践されている師の下で、ご指導を仰ぎながら正法を学び、

正道を実践する以外は道は開けないものだと思います。

ある団体の主催者さんなどは、悟り(見性)の事だと思いますが、

感覚的なものでしかないような事を言っていますが、

それは解らないから、その程度しか言えないのです!?

まず実体験をしてないと経典の内容が理解できないと思います。

神人合一体験は不立文字です。

一種の三昧になって、神の力との合一がおこる

※対象になりきった自分をも対象をもポンと捨てられるかどうかに、悟りが開けるかどうかに掛っているのです!!


釈尊の教えの真髄は、文字や言葉では伝えることができません。

心から心へと、直接体験によってのみ伝えられるとするのが、教外別伝の意味するところです。

したがって、教外別伝とは教のほかに別に伝があるのではなく、

師から弟子へ、心から心へ直接の体験として伝えることである。

また師から弟子へと伝承するというのは、弟子の目覚め(悟り)にほかならない とするのが教外別伝の内容と理解していいでしょう。

お釈迦様が霊鷲山の集まりで、何も言わずに、蓮の花をすっとお示しになりました。

しかし、その意味は誰にもわかりません。

その時に、それを見て摩詞迦葉尊者お一人がにっこり微笑まれました。

この摩詞迦葉尊者ただ一人だけが微笑まれたと言うものでした。

このお釈迦様が一輪の蓮の花をお示しになり、見てにっこりされたと言う事は、

お釈迦様の悟りが摩詞迦葉尊者の心に伝わっていったのです。


  変容の力
Date: 2015-02-05 (Thu)
聖フランチェスコはあなたは決して自分と愛するものから、へだてられる事はない言うかもしれませんね。

誰もが聖フランチェスコになれるのです。

何もへだてられる事はない

隔てているのはほかならぬ自分であるのです。

同じ人間だから同じような体験は誰もができるのです。

聖フランチェスコもきっとそのように言うと思います。


バーソロミューの書物には、このように記載されています。

聖フランチェスコは病床で、心の境界線が少しずつ崩れ、高熱にうなされる状態のなかで、

聖フランチェスコは愛したいけど、どうして愛したらいいのか解らないというジレンマ・・・・。

全身が疑問のかたまりのようになって、何日も苦しみが続き、不安が増し、

イライラと絶望がつのり、もうすぐ夜が明ける頃、外窓の向こうで、一羽の鳥が鳴いたそうです......。

その鳥の歌声のパワーによって、ついに・・・・悟ったのです!!


聖者と言われる聖フランチェスコは、このように悟って行きました。

それまでの鳥の鳴き声が今までとは全く違うように聴こえたとあります。

聖フランチェスコは次第に普通の意識状態を超えて、そういう心理状態が限界を超えて、

最後に一瞬の飛躍があって聖フランチェスコは悟ったみたいです。

その鳥の歌声のパワーによって、ついに・・・・悟ったのです。

その鳴き声をフランチェスコは今までとは全く違うように聴こえました。

その鳥の鳴き声が今までとは全く違うように聴こえたとありますが?

どうして愛したらいいのか解らないというジレンマ・・・・。

全身が疑問のかたまりのようになって、何日も苦しみが続き、不安が増し、

それは次第に普通の意識状態を超えて、そういう心理状態が限界を超えて、

※我をわすれて、そのものそれになりきった時、何らかの感覚の縁にふれて、

そのものになりきって、(ものになる)ところに本来の自己が現れるものだと思いますグッド!

最後に一瞬の飛躍があって、その鳥の歌声のパワーによって、ついに・・・・聖フランチェスコは悟ったのです!?


このように聖フランチェスコは苦痛の中から悟って行ったのです。

もがき苦しみその異常な環境がなかったら聖人にはならなかったと思われます。

たった一人で悩みもがき苦しみ全身が疑問のかたまりのようになって、悟りを開いたみたいです。

それをたった一人で、悟りを開いたとされる聖フランチェスコはやはり偉大なる聖者だったと思います!!


208] 間違いから教訓 Date:2012-05-17 (Thu) 光のかけ橋

バーソロミュー おおいなる叡智が語る愛と覚醒のメッセージ

聖フランチェスコは自分の考えのあやまちに気がついた瞬間は、フランチェスコの人生にとってこの上もなく重要なものになったそうです。

若いときのフランチェスコは自分達と同じ情欲や金銭欲を持ち、酒や女や快楽や権力への欲望を持っていたそうです。

そして多くの罪深い行いをし、自分の欲望を追求し始めたそうです。

それでも自分の求めていた喜びが、思ったほど得られないと気づいたみたいです。

私は欠陥の多い人間である。

善人になるなど不可能。

それなら完璧な罪人になろう。

自分の欠陥を無限におしひろげよう。

その完璧のなかから、自分の人生に喜びと調和が見出せるのではないか、

フランチェスコはジレンマに陥り、善人にもなれないし、欲望に身をまかせても幸せをもたされない。

フランチェスコは、意思の深いレベルで、死の現実と対決する事を選択しました。

常に思い病気を選び、その病気によって死にかけました。

その病床で、心の境界線が少しずつ崩れ、高熱にうなされる状態のなかで、

鳥の歌声のパワーによって、ついに・・・・聖フランチェスコは悟ったのです。

彼が悟ったのは、神を愛する方法ー唯一の方法は、゜神の声をすべてのなかにに聞くという事だというのです。

鳥の歌声に、死にゆくものの泣き声の中に、きちがいの叫びのなかに、らい病患者の絶望の中に、

恋人の抱擁のなかに、、、それこそが神を愛する道なのです。

これらの音と「神の声」を分かつものはない、全くない、、、、

これらの音こそが神の声そのものだという、ことをフランチェスコは悟りました。


  良いカルマを作って行く為の土台にする
Date: 2014-10-05 (Sun)
深層意識にある重圧されている不純物や不浄なエネルギーを生起させて解放してあげれば、

現在医学で原因不明の難病とかに対して、かなり癒されるのではないかと思っています。

心理学でも不健全な感情を取り組む事は、あらゆる病気自体から解放されるきっかけになると聞きます。

カルマが原因の病気の場合は現在医学の範疇にはないようですが、

これなどは本人のカルマの解消に設けられた試練であり、魂の向上に役立つものだから

根本的に解決するのにはそれなりに時間を要するように思います。

また想念体を開いて、負のエネルギーを解放して行く時には、

カルマが終了して行くためにプロセスが始まったと言うものかもしれません。


ほとんどの原因不明の難病病気は、想念体の中にある(カルマの巣)エネルギーだと思っています。

細胞やDNAにしたって、想念体の中にある(カルマの巣)エネルギーが作用して、

DNAが損傷して細胞が癌細胞に変異したりすると思っています。

感情を取り組む事は、生きて行く為に不可欠な事だと思います。


だけども想念体を開くのは、これはとても今の現在では難解なものかもしれません。

それなら出来る範囲で深層意識の中にある負の感情エネルギーを解放してしまうものを見つけて実践する事が良いのです。

日頃あまりおめに拘わりたくない奥深く溜めつづけた反吐がでるような、

誰にもみせる事のできない秘密が誰にもあると思いますが、

その封印している秘密がイメージと伴って出てくる不浄なエネルギーを放出していけば、

原因不明の難病や運命改善にとって、とても重要なメソットになりうるものだと思います。

本当の意味で、カルマを改善していって新たに良いカルマを作って行く土台にする事が非常に大切なのです。


  生命力を強化
Date: 2014-08-20 (Wed)
松本道別(霊学講座)の中にも記載されていますが、

自動療法 本能療法 形式に多少の差こそあれ、何れも霊道の一種たるに過ぎないと記載されています。

現在では霊道術、霊道法と呼ばれているみたいですね。

自分が知る限りでは古代から伝わる布瑠部の術と聞きました。

呪文も道具もいらず簡単に実修できるもので、初心の方でも殆どの方が成功すると思います。

霊道といってもなんだか妖しく思われますが、

憑依した霊が発動するのではなく自己の霊が発動し健康や霊道発揮の基本となるみたいです。

霊の憑依現象とかではなく自己内部の衝動の発動によって起こる運動だと思います。


霊道法はいろんなやり方があるみたいですが、霊子顕道法の方についてのやり方をいいますね。

自分の手を使って、発動するみたいです。

(例)古代道行法秘伝 大宮司朗

両手に力を込めて強く掌を圧する。

この時に何も考えなくてよいが、

「掌が震動する」と強く思い続けていると自己暗示の作用でよりいっそう震動が生じやすい。

一度で発動する人もいるが、一度で発動しなければ、何回でも繰り返し、おこなうようにする。


霊道法はちゃんとした指導者や専門家に師事されたらいいですよ。

諸刃の剣ではないんですが、「気違い運動」とも言った方もいましたからね。

でも、実際は奥が深くて、カルマの解消や霊言も出てきたりすると言われています。

一念三千ではないですが、思いと行いを正し、

内面を見つめていかないと、危険な事にも成りかねませんから、

憑依現象は掌が震動する事もあると言われていますからね。

たとえ霊道法が起こったりしても、気を引き締めて心の浄化に努めていかないといけませんね。


■ 霊道法とは、
Date: 2011-04-25 (Mon) 光のかけ橋

人間は肉体だけではないと思わせる一つかもしれません。

興味があるかたはまず、期待をせずに、霊子術を実行されたらと思います。

実習して行くと、だんだんと身体がユラユラと揺れてくるのです。

身体が動きたいままに任せてユラユラ、グルグルと動いて行きます。

霊子顕道法の中の飛動にもありますが、床から離れてて飛び上がるようになる。

その度合いが激しくなると、室内を飛び回りはじめるという激しい運動に初めはびっくりするかもしれません。

でも、徐々に激しさはおさまって行くと思いますよ。

実際はこの運動は、これがとても気持ちがいいみたいです。

揺れてくる場所は手や腰の辺りであったり、眼球や首だったりと色々みたいですね。


この霊子術は自己の霊が発動して身体の一部、または全部を震わす術だそうです。

この中に「布瑠部 由良由良止布瑠部(ふるべ ゆらゆらとふるべ)」というものがありますが、

布瑠部」は“震え”のことのようです。

松本道別(霊学講座)の中にも記載されています。

自動療法 本能療法 形式に多少の差こそあれ、何れも霊道の一種たるに過ぎないと記載されています。

他の方も活元運動なるものをやっていて「貧乏ゆすりに似てるかも〜」なんて書いていますが、

自分としては霊道と言う呼び名は妖しくドロドロしたものと思われますが、

無意識によくしている貧乏ゆすりみたいなもので(失礼)と光のかけ橋に書いています(笑)

でも、奥が深くて、カルマの解消や霊言も出てきたりすると言われています。

実際は呪文も道具もいらず簡単に実修できるもので、初心の方でも殆どの方が成功すると思いますよ。

神道系の修行法にもあるようなので、専門家や霊動法専門道場に師事される事を望みます。





  二つのものを一つ見るのが悟り
Date: 2014-08-14 (Thu)
また秋月先生はこのようにおっしゃつていますね。

自己を忘れて、万法の方から逆に自己修証される時に(悟り)の世界が開けます。

自己が世界を対象として見ている時は、自己と世界とが二つになる。

逆に万法の方から進んで自己を修証するという時には、自己が無になって、自己は万法に一如して働くわけですから、

二つが消えて一そのものが動き出してくるのです。

要するに、一つのものを二つ見ているのが迷いで、二つのものを一つ見るのが悟りなのです。


西洋思想でいう、「主観」「客観」を認識すると言うのは違います。

だから鏡(主観)に物(客観)を映すような、水(主観)に月(客観)が映るような関係ではないと言うのです。

そこでは見る真人と見られる真如とは「不二」です。

「見性」と言うときには、「見」が「性」が「見」です。

見性は不二です。

西洋思想の根底には「ニ」があります。

主観と客観が分かれたところからものを見ます。

まず、主観あって、客観を映すのです。

これを「分別知」と言います。

それに対して東洋思想は「一」いや「ゼロ」(空)を根底とします。

般若の「無分別智」です。

道元入門 秋月 龍a


  静かに耳を傾ける。
Date: 2014-07-06 (Sun)
ただ静かにすること

心を静めて耳を傾けなさい。

あなたはその言葉を聞く事になるでしょう。


「奇跡のコース」のワークを学ぶ 神の教師

レッスン125 8

神があなたに話しかけるとき、あなたが聞くのはあなたの声にほかなりません。

神が話すのはあなたの言葉です。

それは、自由と平和の言葉、意志と目的が統一された言葉です。

父と子のたったひとつの心には分離もありません。

今日は、あなたの真の自己に静かに耳を傾け、神はけっしてご自分の子をを置き去りになどなさっていないし、

あなたも決してあなたの真の自己を置き去りにはしていないことを教えてもらいなさい。

神の教師 (『奇跡のコース』のワークを学ぶガイドブック5)
[単行本(ソフトカバー)]
香咲弥須子 (著)


  感覚を味わないで、手放し
Date: 2014-06-28 (Sat)
17歳ぐらいだったかなぁ?

友達が部屋に泊まりに来た事がありました。

そんな時に家の近くでコオロギ鳴いていました。

このコオロギの鳴く声を聞いていて、自分とコオロギの境界線が無くなり自分が一体になったように感じました。

その時に友達の声が微かに聞こえているんだけど、コオロギの声と自分が一体になったようになって、

とても不思議な体験をしました。

何とも言えない気持ち良さを感じたのを思い出します。

ほんと全身が蕩けてしまうように、また洗われるとても爽快感と気持ちよさを感じました。

この気持ちよさは、筆舌にはとても伝えられないものです。

もう一度この気持ち良さを体験したくて、その状態になるようにした事がありました。

何回か同じような状態近くにはなりましたが、初めての体験のような強烈ではなかったけど、

それなりの気持ち良さを体験しました。

今考えると、覚醒の手前まで来ていたように思います。

その感覚を味わないで、手放しをしたら、もっと違ったものになっていたかもしれません。

やはりこういう時は師いて、指導した貰わないと開けないと思いました。


  正しい坐相をねらって
Date: 2014-06-28 (Sat)
黄檗禅師は思念をやめ思慮なくせば、仏は自然現れると説いていますね。

精神集中に集中と言う言葉が妥当かどうか疑問ですが、

精神集中と言えば、一生懸命に目の前にある壁を睨み付けている事が精神集中だと頑張っていた方がいました。

実際は精神集中している自分をも対象をポンと捨てないと開けてこないのです。

これは壁を睨み付けている頑張っている自分をも捨てないといけないと思います。

禅的には正しい坐相をねらって筋肉と骨格で、思いを手放し

雑念にふりまわされず、祗管打坐して行く事が大事だと言う事になるのではと思います。

また、マントラを捉えている方は、雑念を捨てて、マントラに成り切る事だと思います。


精神集中に集中できている自分をも対象をポンと捨てないと開けてこない

集中できている自分もポンと捨てないと、悟りの手前までともう少しと言うところまで来ている状態なのに

元のもくやみになってしまいます。

それには神仏のご加護・師の恩恵なくして到底達成はできないと何回も自分は言っていますが、

体験すればきっと理解ができると思いますよ。

自分一人では到底達成できないと後からつくづく思い知らされますね。

これは宗教だからと拒否反応をしめす方もいると思いますが、そういうものだとしか言えません。

正しい坐相をねらって、思いを手放し雑念にふりまわされず、続けて行くと、

普通の意識状態を超え、意識の限界に達した時、意識の境界線を越えて、

最後に一瞬の飛躍があり、主体と客体の合一な体験をする事になるかもしれません。


  求道心が目覚め(悟り)を開かせる
Date: 2014-05-19 (Mon)
[137] 素質の劣っている人でも悟れるか? Date:2011-05-21 (Sat) 光のかけ橋

弁道話の中に道元禅師はこう言っています。

インドや中国のような文化の優れた所に住んでいる人間は、悟る事ができるでしょうが、

国土も素質も劣った人でも悟る事ができるでしょうかと言う問いに、道元禅師はこう言いました。

人は素質の劣っている人も優れた方でも、区別なく等しく悟る事が間違いなく出来ると言うのです。

仏法伝授する事は本当に悟った人を師匠にとせねばならない。

文字のせんさくに明けくれる学者は、師匠とするには不足である。

それでは盲が大勢の盲を導くものようなものです。


お釈迦様が一輪の蓮の花をお示しになり、見てにっこりされた

それを見て摩詞迦葉尊者ただ一人だけが微笑まれたと言うものですが、

お釈迦様の悟りが摩詞迦葉尊者の心に伝わっていったのです。

この心から心へと、直接体験によってのみ伝えられ

師から弟子へと伝承するというのは、弟子の目覚め(悟り)にほかならないと言うものです。


本山先生は言っておられます。

悟りに達するには、一切への無執着と、行の極で自分と神仏に全託する事こそ肝心

この対象になりきった自分をも対象をもポンと捨てられるかどうかに、悟りが開けるかどうかに掛っているのです。

精神集中の対象になりきっる程に集中ができているのに、

その集中して対象になりきっている自分をも対象をポンと捨てられないと、

悟りの道程の九分九厘迄行っていて、定から出てくると又元の処に戻ってくる。

悟りの境には達しない。

このポン自分をも精神集中の対象をも捨てる事こそ、

乾坤一擲(けんこんいってき) というか、悟りを開ける一番肝心の所です。

ところで対象になりきっている自分とその対象をポン捨てる事、

そして一躍して悟りの境に入するには、人間だけではでない。

そこに神仏の力が加わらねばできない。

神仏に自分の総てを託する。

任せねばなりません。

その時神様が、その人の自己の殻を破り捨て、高い悟りの境に上げて下さる。

本当にそこまでなりきっているか、菩提心がどれだけ強いか、それは神様しか解らない。


心の確立と霊性の開発









  心から心へと直接体験とは、
Date: 2014-05-02 (Fri)
正道を実践をし、師や神仏の恩恵によって悟りが開けると思います。

お釈迦様が一輪の蓮の花をお示しになり、それを見て摩詞迦葉尊者お一人がにっこり微笑まれました。

これは体験している者だけが、一輪の蓮の花を理解できるものだと思います。

遥か何千年の時空を超えて師から弟子へ、心から心へと直接体験によってのみ伝えられてきました。

実際は言葉や文字では、究極のところは伝わりません。

いくら人が知らない難しい言葉を並べて、納得させようが、

文字や言葉では伝えることができないのです。

いくら体験したとか、心の変化があったとしても、

悟っていない師に認可して貰ったところで自己満足になるだけなのです。

たとえ認可されようが、悟った上で、修行が大切なのです。

この事が解らなくては、悟ったと言われないのです。

まして、見性認可して貰う必要もないのです。


■ 心から心へ直接の体験

Date: 2012-05-22 (Tue) 光のかけ橋

今からおよそ2500年前にお釈迦様が悟りを開かれて、

お釈迦様の悟りが修行僧の心から心にと伝わったと言われがあります。

実際は言葉や文字では、究極のところは伝わりません。

釈尊の教えの真髄は、文字や言葉では伝えることができないと思います。

お釈迦様が霊鷲山の集まりで、何も言わずに、蓮の花をすっとお示しになりました。

しかし、その意味は誰にもわかりません。

その時に、それを見て摩詞迦葉尊者お一人がにっこり微笑まれました。

この摩詞迦葉尊者ただ一人だけが微笑まれたと言うものでした。

このお釈迦様が一輪の蓮の花をお示しになり、見てにっこりされたと言う事は、

お釈迦様の悟りが摩詞迦葉尊者の心に伝わっていったものだと思います。


心から心へと、直接体験によってのみ伝えられるとするのが、教外別伝の意味するところと言われています。

したがって、教外別伝とは教のほかに別に伝があるのではなく、

師から弟子へ、心から心へ直接の体験として伝えることみたいです。

また師から弟子へと伝承するというのは、弟子の目覚め(悟り)にほかならない とするのが教外別伝の内容と理解していいと思います。


  意識が全てを引き寄せる
Date: 2014-04-13 (Sun)
被害者が加害者でもあり、加害者が被害者でもある。

また事故や偶然はないと言う事みいですが、意識が全てを引き寄せる

被害者と加害者がドラマを演じて、相互関係やつながりシンクロニシティによって

創造した現実が鏡を通して、見えて来るでしょうかね。


もし殺す方も殺された運命にあったとして、また殺された方が今度は殺す側にまわっても

変容できるドラマを演じて、バランスが取れる事になるのでしょうかね?

被害者は殺される運命にあったとして、もしかしたら加害者に殺させないように、させる事もできるかもしれません。

本来なら殺される運命にあってそれによってバランスがとれるところ

被害者は殺される運命にあったのだけど、加害者に殺させる事をさせないで

その出来事を再構築でしてバランスが取れる事になるのかもしれません。

これなどは変容できるドラマを演じ事ができるかもしれない

そうやって成長していくとこのようになるのだろうか?

体験というならば、合格不合格のない世界だと思っています。

体験としては、何も間違った体験はない。

誰もが変容できるドラマを演じ事ができるかもしれない。


またイエスとユダの関係は、イエス様はユダ裏切りに逃げる事もできたはずです。

もしユダが裏切らなければ、イエスの十字架はなかったことになってしまう

また裏切させないようしようと思えばできたかもしれません。

それをイエス様は受け入れたのです。

もしユダが裏切らなかったらあの物語は完成しなかったと思います。


パシャールの書物の中に預言者エリヤと洗礼者ヨハネとイエスとユダの三人の関係が、

同じく洗礼者ヨハネとイエスとユダ三人の関係重複しながら表現されていたのです。

この二つの三角関係は同じ意識から発生したものです。

エリヤは町で叫びながら皆さんの言う予言をし、それから行われるドラマがスムーズに演じられる

よう事前に準備をしていました。

大いなる全てからの分離というドラマの中で、その時代の人々が創造したいた元型のエネルギーのすべての

異なる側面を映し出す為に必要な鏡となるドラマの幕を開けるために

ドラマの幕を開ける為に、




http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html

神々の故郷とその神話・伝承を求めて

小澤圧克彦

13、イスカリオテのユダ

 このユダというのは、イエスを裏切ってユダヤ教の神官たちに売り渡して十字架刑で殺させたその張本人としてキリスト教世界では「悪人の権化」のように扱われています。

しかし、表ではそうなのですが、実はその「イスカリオテのユダ」を巡っては裏では昔から議論が絶えなかったのです。

というのも、少しでもものを読める人なら、なぜユダは裏切ったのか疑問に思ってしまうからです。

現行の『聖書』の四つの福音書はいずれも、ユダが裏切ったその動機や理由について納得に足る説明をしていません。

もちろん何も理由をいっていないわけではなく「金で売った」ということになっています

(この説は「マタイ」の伝承で、「マルコ」もおなじ筋道と読める。しかし、「ルカ」と「ヨハネ」ではユダにとりついた「悪魔の仕業」とされる)。

しかし「金ほしさ」であったとするなら、ユダはすぐに後悔して金を返しに行って首を吊ったとか(「マタイ」)、どうも釈然としません。

「ルカ」や「ヨハネ」のように「悪魔がとりついた」などという言い方は「理由がさっぱり分からん」といっているのに等しいです。

さらにここから、何故イエスは裏切を避けなかったのか、とも思われます。現行の福音書の語るところでは、

イエスは裏切られることを事前に知っていて、それがユダであることもはっきり示しており、

あまつさえユダに向かって、「あなたがしようとしていることをすぐにしなさい」とまで言っているのです(「ヨハネ」13.27)。

これは全く釈然としません。裏切りの犯人を知っていて、しかもそれを避けようとはせず、むしろ「促した」というのでは、

「わざと裏切らせた」としか読めないからです。


さらにもっと突っ込むと、かりにもしユダが裏切らなければ、イエスの十字架はなかったことになってしまう、とも言えます。

そうなると「復活」もなくなって、イエスの神性は消し飛んでしまい、今日の正統キリスト教は土台から崩れ去ってしまいます。

まして後のキリスト教ではイエスの十字架での死を「人類の罪を背負っての贖罪」などと説明するのですが、これは何なのか、ということになってしまいます。


要するに、イエスが病気や老衰で死んだ、となったら「人類の罪をしょって死んだ」という「人類のあがない」がなくなってしまうわけで、

どうしてもイエスは「十字架の上での非業の死」をとげなければならない、ということになるのです。

つまり、イエスが「キリスト」となるために「十字架刑」は「絶対必要条件」であったということです。

そういうことになると、この「絶対必要条件」は意図的に準備されなければならない、ということになるわけで、

これはイエスの真実を見抜いていた者がイエスの指示の下でやったということになるであろう、という筋道になるわけでした。

 こういうことになると、「ユダは裏切りの極悪人」という通常の解釈はどうも納得できないと思われても当然です。

そこには「何か」があるのではないか、と思うのが普通です。 こうしてさまざまの解釈がされてきたし、現在もされているのでした。

それは表だっての神学論争とはなりませんが(やったら異端とされかねないから)、さまざまの文学や演劇に描かれてきました。

典型的なものとしてロックミュージカル『ジーザス・クライスト・スーパースター』などがあります。

そこでのユダはイエスに献身的な愛を捧げている弟子でした。

ボブ・デュランの「神が味方」という歌にも「君はやがて悟るだろう、イスカリオテのユダには、神が味方していたのだと」という一節があります。

 こうしたユダに関わる正統教会の見解に逆らう見解をまさに支えているといえるのが最近復刻されて有名となった『ユダの福音書』になるのです。


ユダの福音書
 ここでのユダは、12弟子の中でも唯一「真実のイエス」を理解している最高の弟子とされています。

ほかの弟子たちはイエスを理解できず、イエスの言葉に腹を立てまともにイエスの前に立つこともできなかったのに、

ユダ一人だけが立つことができたのでした。そしてイエスの来たところ、つまり神の国を言い当てたのもユダだけでした。

そのためイエスはユダだけに秘密の教えを授け、その上でユダに「裏切りを要請」し、自分の故郷なる神の国への帰り道を用意させることになるのでした。

そして、イエスはユダに向かって、「おまえは皆にそしられ、迫害され、死んで他の者に12弟子の地位を明け渡すことになるのだが、

すべての弟子を超えた存在となるであろう」と約束するのでした。

 これなら、ユダの裏切りは納得できます。上に疑問としてあげておいたことがすべて解決されるからです。

それにも関わらず正統教会はこの見解を拒否するばかりか、これを憎悪してきました。

180年代の有名なキリスト教護教家であるエイレナイオスは口を極めてこの『ユダの福音書』を攻撃し、さらに375年にはエピファニオスもこの書を攻撃しています。

ということは100年代から400年代にかけての初期キリスト教の時代、この書は多くの人たちに読まれ影響を与えていたということです。

だから正統をもって任じている派は激しくこれを攻撃し、そして、結果的に勝ったというわけでした。


  お金持ちと宗教の職業としてのお坊さん
Date: 2014-04-13 (Sun)
実家は浄土真宗なのですが、親鸞上人さんや浄土真宗の事は解らないのです。

解っているのはお金持ちと宗教の職業としてのお坊さんぐらいしか思っていませんでした。

どうもあまり自分の周りや友人などは、あまり良い印象は持っていないようです。

友人が学生の頃に〇〇〇の出入りみたいだと言っていましたね。

本山に上がる時などは、〇〇〇の出入りのようなの黒塗りの高級車ペンス

が行列して通っていたような事を言っていました。

自分の祖先の宗教の事を、まったく知らないでは済まされないから

これからは、祖先の宗教の事を少しずつ理解できたらと思っています。


「難異抄」の悪人正機説には、善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をやと言う始ります。

その意味は現代語に訳すと善人でさえ往生できる、まして悪人は言うまでもない。

常識的には悪人でさえ浄土に往生する事ができるのだから、

まして善人はいうまではないと考えると思いますが、

親鸞は逆説な事をいっているのです。

悪人のいう方は、自分の事が悪人だと明らかに自分の事が見えていますが、

善人の方は、自分がこれまで正しい、何ら悪い事を一切していない。

今まで正しく生きて来たと、自分が善人だと思っています。

まだ自分の事が見えてないのです。

自分の事がちゃんと見えて、自分は悪人であると見える事こそが、

正しい人間の姿であると親鸞上人はいいたかったみたいです。

自分の姿が明らかに、正しいくみえた方だけが救われる

輪廻から出る事ができると説いたようです。



http://nobunsha.jp/

千年の言葉を読む「言の葉庵」引用

[原文]
 一。善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや。この条一旦そのいはれあるにたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おほせさふらひき。

『歎異抄』梅原猛 校注・現代語訳 講談社 1995.5

[現代語訳]
 一 善人ですら往生をとげる。まして悪人が往生できないことなどありましょうか。しかし世の中で普通は、悪人であっても往生できる、まして善人が往生できないはずはない、といっています。一見こちらの方が理屈にかなうようにも思えますが、本願他力の本旨に背いているのです。つまり自身の力で善いことを行い努力する人は、ひたむきに他力を頼る心がありませんので、阿弥陀様の本願にかなわない。それでも自力の心を捨て、他力におすがりもうせば、まことの極楽浄土に往生できるのです。
多くの煩悩にとらわれているわたしたちは、どんな修行をしたとしても生死を離れることなどできません。阿弥陀様がこれを憐れみ、お立てくださったのが、この本願。悪人成仏のためのものだから、他力にすがるしかすべのない悪人こそ、本来の往生の対象なのです。これにより、善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おっしゃられたのです。


  対象物に溶け込み一体となるのには、
Date: 2014-04-07 (Mon)
悟ってない者が、悟ったような事を言うのはおこがましいですが、

対象物に溶け込み一体となる、対象になりきった自分をも対象をもポンと捨てられるかどうかが分かれ目だと思います。

正しい坐相によって、自分が対象物に溶け込み一体となることが、主体と客体の合一な体験であります。

この意味を理解していけば、きっと開けてくるかもしれません!?

その為には、正しい坐相をねらって雑念にふりまわされず、祗管打坐して行く事が大事だと思います

主体とは自分自身のことであり、また客体とは対象物を指します。

一種の三昧になって、神の力との合一がおこるのです。



■ 結果を求めるのではなくて、なりゆきが大切

Date: 2012-06-06 (Wed)

開悟といっても、迷っていたのがいま悟りを開いたというのではない。

本来ひらいている悟りをいまここでひらく。これが開悟です。

またこう言う事を言う人が必ず出てくるんですよね。

本来悟りを開いているのなら、何もしなくても悟っているんだから、何もしなくても良いと言っている方もいましたが、

いいですか?本来ひらいている悟りをいまここでひらく。これが開悟です。

だからここを勘違いしてはいけません。


悟りというものは悟りたいと思っているうちは悟れないんです。

自分の言っている事はなかなか理解できないかなと思います。

悟り、悟るとか?そう言っているうちは開けないと老師や覚者も言っておられますね。

悟りを目指して。悟りたいと思っているうちは悟れないと思います。

弓道は的は狙ったりすると矢は外れると聞きます。

いかに自然体が大切だと言っていました。

結果を狙えば、的は外れると思います。

結果を求めるのではなくて、なりゆきが大切だと思います。

これは悟りに関わらず何事に対しても同じ事だと思います。


その悟りたいという執着を手放しにしないと悟り(見性)体験はできないかと思います。

その意味においては覚醒や悟り(見性)を開くのに何も必要なものはなく、足りないものもありませんが、

だからと言って足りないものはないし、今のままで完璧だからと悟らなくともよいと言うのではありません。


覚者は悟りといっているうちは悟れないと言っていますが、完璧だから何もしなくて良いとは言っていないんです。

悟りにこだわるから悟れないと言っているだけなんです。

その為には必要なものもないし、足らないものはないといっているに過ぎません。


  この現実を想像して来ている
Date: 2014-04-03 (Thu)
神は乗り越えない試練を与えないとか良く聞きますが、

どうやらそうではなくて、全ての方が創造主・クリエーターとして、自分自身がこの現実を想像して来ているようです。


ラムサーは転生の神秘で事をこんな語っています。

思索の場所で、我々は加害者と被害者の両方であり、お互いの精神が合流し、

一つの関係を築き上げる。その後その関係はこの地上界での出会いを作りあげる事になる。

あなたは演じる為にここに戻ってきた。

まさにそのドラマに出会うために、これらの人々は人生に現れては去って行く。

では、今彼らはどんな役を演じているだろうか?

それは究極的には、その天界での選択である。

この生で我々が出会った存在たちは、偶然出会ったわけではなく、

その道で出会うそれぞれ人が、実際には我々が至福の天界で創造した潜在的な可能性の一部だったと言う事を理解し始めている。

至福の天界から、あなたは誰に会いにきたのか?

誰と取引するために来たのか知っている。

そして最も許しがたい人だろう。

その人は、あなたとその人の双方のために、その役を演じる事に同意した誰かなのだ。

そして、あなたはそこへ遡って行かなければならない。

そうすれば彼らを見つけ、それに注目しなければならなくなる。

犠牲者であったことについて言えば、たなたは彼らを苦しめる人だったのだ。

自分の人生すべてを彼らに責任転嫁し続けるという力の座に座り続ける事は、

あなたにはもはやできない。

あなたは彼らを自由にしなければならない。

何故ならそうする事によってのみ、非難に向けられることのない力を取り戻す事ができるからです。

そうでなけばあなたは自由だ。


そう自分達は創造主と同じもので作られた存在で、創造・クリエータをし、

現実を作って来たのです。

加害者も被害者も同じ波動に引き寄せられ出会う。

そうであるならば加害者が被害者なのかもしれません。

被害者が加害者なのかもしれませんね。


創造主や神様と言う存在は、ただ在るだけである。

善悪もすべて内在している存在だと思っています。

それに創造主や神様は罰や試練を与えたりはしません。

全てが自分が想像して、現実を作っているのです。

宇宙はその方によっては、優しくもあり、厳しいものだと思います。



  波動を切り替え
Date: 2014-03-13 (Thu)
アシュタールと再会をして、再認識をしました。

宇宙にすべてお任せすると言う事が大切なようです。

後は波動がどうかというのが全て未来を実現するのです。

ですから不安や恐怖を感じたり、またほんとかなぁと?掘り起こしたりすると?

あなた方から宇宙に発信で波動をキャッチして、それを実現してしまうようです。

病気の時は誰だって不安や恐れもあり、もしの事を考えていろいろな事を考えたり、

ネガティヴなイメージをしたりするかもしれませんが、この波動を宇宙がキャッチして動きだすのです。

それを実現してしまいますから、そこでタイムマシンに(イメージ)乗って、未来に行き

そこでなりたい自分のイメージをリアルに、もうすでにそうなっていると未来の記憶を作る。

後は宇宙にすべて任せると言う事が良いようです。


今あるのはすべて自身が設定している。

全ての方は自分のシナリオを書いていると言う事のようです。

それを創造主や誰か助けてと言うのはそれは依存になると言われました。

あなた自身が決めた事ですから、と自分も言われました(涙)


宗教の深く反省したり、悔い改めも心の浄化には良いようですが、

確かに心の浄化になったり、もう〜同じ事を二度としないと起動修正したりするのは良いようですが、

これも波動を切り替える事になるのだと思います。

自分はシターヒーリングやブロックバスターの思考の入れ替えや引っこ抜きはとても素晴らしいツールと思っています。

でも、自分の体験上どうしても、想念体の中にあるブロックエネルギーを伝える事が自分の役割りでもあるのです。

これはカルマの解消を行っていると言われるティチャーさんでもできないのです。

なくならないのです。

想念体を開けて、解放するか?

波動を切り替えて、なりたい未来を実現するようにして行く以外になかなかないようです。


  波動合わせ方(アシュタール) 
Date: 2014-03-13 (Thu)
自分のなりたいあなた、各領域においてパーフェクト

結婚であり、御家であり、すべてである。

なりたいあなたをリアルにイメージする。

五感を使って、もうすでにそうなっている。

未来の記憶を作る。

今までのあなたの人生の延長線よりその未来に記憶するのではなく

よりビックに欲張りに無限の可能性を潜めている。

どんな人生を歩いていたいのか?

五感をイメージする。

眼から見る・耳から聞こえる音、その感情はどうなっているのか?

ワクワク・武者震いする・にやにやする事になる。

波動を宇宙がキャッチして動きだす。

瞬間、瞬間に宇宙が動き出す。

そしてインスピレーションを信じる。

後は宇宙にまかせる。


そして誰かの顔が浮かんだら会ってください。

どこかに行こうと思ったら行ってください。

自分のインスピレーションを信じる。

いつそうなるかは期限の設定をしない。

どのようなプロセスもイメージしない。


心の中にあなたが存在している。

そのリアルにそれだけで良いのです。

後は宇宙に任せるのです。

後は波動がどうかというのが全て未来を実現するのです。

ですから不安や恐怖を感じたなら

あなた方から宇宙に発信で波動をキャッチして、それを実現してしまいます。

波動の実現のコツはパーフェクトな自分で未来作っているイメージし

ワクワクして宇宙につたわる。


  宇宙は動き出す
Date: 2014-03-11 (Tue)
質問に卓越したティチャーは華やかさや豊かさを兼ねて、とても幸せなのだけど、

それに比べこの自分は暴〇団に殴り殺しのように殴られ・殺〇者に付け狙われたり、

カルマを開けたり、それでいて悟り(見性)クンダリニー覚醒やこれ以上乗り越えて行きにくい〇〇を背負ったり、

この苦しみから解放されたいのだけど、どうして、宇宙や神様は助けてくれないのか?

聞きどけてくれないのかという質問に、あなたの人生のシナリオはあなた自身が設定している。

あなたご自身の役割りに担って行く。この地球上で乗り越えてクリア出来た時に

今地球上で苦しんでいる方の希望と勇気を与えられる存在・

あなた自身が設定している。

それを創造主や誰か助けてと言うのはそれは依存になる。

あなた自身が決めた事ですから、

あなたは役に立ちたい貢献したい存在、愛と光で居たいと強く感じます。


自分はそんなに強い魂ではありませんとアシュターに言いました。

あなたはマスタークリエータに愛され・守られサポートされている。

この今の日本に存在している事は役割りを担っている証しです。

地球上に愛と光をベースに平和へと導く役割りを担って、この地球上に降り立った魂・宇宙に居た頃の勇敢な魂

今後、地球上に役割りに担うために宇宙と地球のサポートを受け育んで行く。


これはあなたの為ではない、地球の為・宇宙の為なのです。

あなたの生きざまを見せて、地球上のどれだけの人が光と希望になるか、

すると彼らの波動が変わって行くのです。

これからの為に経験があったのです。

生きざまを見せて行く事、すると大変革をするのです。

あっと皆が驚くのです。

それをあなたが狙っているのです。

宇宙の法則に従って、波動を合わせるとほらこんなに変わるんだ。

身を持って生きざまで証明しょうと今までのシナリオを書いてこられた。

これからのあなたを見せるのです。

後、認める事、勇敢な魂、光の存在である事

体感した事を認めてください。

それがあなたなのです。


DNAリネージでも、愛と光と平和を体現する為に生まれて来ているとありましたが、

アシュタールにも地球上に愛と光をベースに平和へと導く役割りを担って、この地球上に降り立った魂だと言われました。

自分は役割りや使命などの言葉はあまり好きではなくて、使いませんでした。

それはこの今の地球上に居る事は誰だって、使命や役割りがあると思っていますから、

あえてそんな言葉は使いませんでしたが、使わなくても認める事によって宇宙は動き出すと言う事なのですから、

言葉は使わなくても、自分自身で認める事が大切だと思いました。

キーワードは「信じる事」動く事、認める事、これからのあなたを見せてあげてください。

それによって、宇宙は動き出すのです。


  聴覚障害?
Date: 2014-03-11 (Tue)
耳鳴りの初めの頃はクンダリニー覚醒時の障害が出来て、耳鳴りが出来たのかと思ったりしましたが、

後に解った事なのですが、これはアストラル体の音みたいだと解りました。

またドリーンバーチューの書物の中にアースエンジェルの特徴として、甲高いリーン・リンリンとかの音がしているのは

高い意識体からのダウンロードされるような事みたいに書かれています。

これは消える事のない音として、自分の一部になっています。

この音は意識するとかえって、音が大きくなるようですね。


それともう一つの音が聞こえるようで、それが甲高いリーン・リンリンと重なり合って、

ボワーンと響くような音がします。

これはプレアゼスの事について書かれているティチャーの日記に書かれていました。

マインドと魂が一つになって高次の波動を知覚している。

高次元の周波数と調和していると言う事みたいですね。

それと現実の音と3つが重なりあって、聞こえてくるのです。

また眼を瞑ると、眼の渦、眼の玉・第三の眼がいつも渦巻いているのです。

これらは特殊なものではないと思いますが、こんなものを持ち合わせている者もいるのです。

それとこれらは高い霊性を持ち合わせているとは、また別な事なので、勘違いはしないでほしいのです。


随分前に難聴の方に聞いた事がありましたね。

いつも耳鳴り何かしているような事を聞いた事がありました。

そうだ自分も現在医療では難聴の部類になるのだろうと思った事がありました。

でも、最初の時はクンダリニー覚醒の後遺症かな?と心配をしましたが、

その頃はこの音をふっくるめて生きて行く以外はないと諦めた事がありました(泣)


だけどもこれで障害者手帳は貰わないですよ(笑)

ちゃんと現実の音は聞こえているのですからね。

だから自分と同じような音を聞いている方がいれば、難聴とか?あまり心配にならない方が良い場合もあるのです!?


  自分が自分をして行くのだから、
Date: 2014-02-27 (Thu)
瞑想とかしていると、瞑想をしていない時なども瞑想状態に入ったりたりします。

きちんと一つ一つの課題に向き合って、対処していないと現実に対応できなくなります。

御飯食べる時は、御飯を食べる事、仕事するときは仕事を集中しないといけません。

ついボートしたり、考え事をしていると船の乗り場を間違えたり、仕事で失敗した事もあります。

大切な要件や頼まれていたことなどはすっかり忘れてしまう事もあります。

だから目の前にある事をきちんとして、考え事をせず、瞑想する時は瞑想する。

仕事をするときはきちんと仕事に集中しないと現実に対応できなくなります。

その為には瞑想や座禅はちゃんとした道場で行う事が良いのです。

一人よがりの座禅では、魂の入っていない抜け殻座禅になってしまうのです。

本来なら癖を取らないいけないのに背びれ尾びれではないですが、

余計なものまでくっつけて悪い癖になったりするのです。

座禅していると居眠りするか?考え事をしているかどっちなのです。

これでは座禅になってなくて、居眠りか考え事をしているのです。

その為には師は座禅に集中させる為に警策(けいさく・きょうさく)を持ったりしている道場もありますが、

でも、そのけいさくに頼ってしまったりすると、叩かれないように坐る事が目的のようになる方もいます。

これでは座禅どころではない。

叩かれないようにしっかり姿勢を保つ事ばかり囚われてしまいます。

でも、警策(けいさく・きょうさく)に頼らずとも

接心などは、七日間の間にずっと寝っぱなし、無考え事ばかりではありませんから

自分としては警策(けいさく・きょうさくないほうが、良いと思っています。

集中している事が途切れてしまうと思っていますからね。

それに誰の為にしているのではないですからね。

自分の為にしているのですから、眠るのも考え事しているのも自分なのです。

自分が自分をして行くのだから、ここを忘れないようにして骨組と筋肉で正しい座相を狙う事がもっとも正しい座禅

思いを手放しをして生き生きと目覚めて、座禅に立ち返る事が重要なのです。


秋山さと子の書物にはこんな事が記載されています。

見性の寸前には、自分がどんな状態であるのかまったくわからないような一種の無我状態に入る事はたしかです。

南禅寺の柴山老師にうかがったら、最後に師のいる独参の部屋まであるいて行くのに、

壁に突き当たってやっと曲がり角がわかるというような状態だったとあります。

道場ではこのようにやっと突き当たって解ったとあります。

鈴木大拙先生は最初の見性のときは何がなんだかさっぱり解らなかったけど、後でアメリカに行かれて掛け軸に「腕外に曲がらず」

と書かれてあったのを読んで、はっと思いあたれたと言う事です。


  自分が自分になる
Date: 2014-02-11 (Tue)
あの聖フランチェスコも何日も苦しみが続き、不安が増し、

イライラと絶望がつのり、もうすぐ夜が明ける頃、外窓の向こうで、一羽の鳥が鳴いたそうです......。

その鳥のかなでる歌声のパワーによって、彼は悟ったのです。

バーソロミュー  マホロバアート
ヒューイ陽子=訳


鳥の歌声のパワーによって、ついに・・・・聖フランチェスコは悟ったと言う事みたいですが、

覚者や聖人と言われてる方は一般の子供と同様に育てられ、ただその環境や現象に無常を感じ、

苦痛の中から悟って行ったと言われがあります。

聖フランチェスコが光の天使だから、聖人になれたと思っているかもしれませんが、

もしそのような環境ではなかったなら、はたして聖人になれたでしょうか?

これは生まれて来る時に自ら悟れるような環境を設定して来たのだと思います。


これは裕福な家庭や由緒ある家系に生まれるとは限りません。

ましてそのような環境を設定してきたのであれば、果して悟れる事が出来たのでしょうか?

そのようなぬるま湯で浸かっていたのでは、その環境に甘んじてしまいそう。

またあまりにも苦難の環境に置かれたならもその環境から逃げてしまうかもしれません。

でも、強い魂をもっている方は、あえて強い魂修行を選択して、魂が目覚めるのだと思います。

その環境に打ち勝ってこそ、覚者や聖者になれるのだと思います。

それだけ強い魂を持っていると言えるかもしれません。


バーソロミューの書物によると、若いときのフランチェスコは自分達と同じ情欲や金銭欲を持ち、

酒や女や快楽や権力への欲望を持っていたそうです。

そして多くの罪深い行いをし、自分の欲望を追求し始めたそうです。

このようにフランチェスコはその環境や現象に無常を感じ、悟って行ったのです。

これはフランチェスコ自身が悟れるような環境を設定して生まれて来たのだと思います。

あの聖フランチェスも自分達同様に罪深い行いをし、その中で悟って行ったと言う事は

誰でも等しく悟れるのです。

同じ人間だから、同じような体験ができるのです。

ここで悟りとか、悟るとか言いますが、これはスピリチュアルな事をしていたり、

目指している方でも、また普通の方でも私達に関係がない。

別世界の事、一部の宗教狂いの方だけがと思っているかもしれませんが、

本来は人間は悟った存在なのです。その悟った本性を悟る事はとても大切な事なのです。

本来の純粋なる存在に立ち戻るのです。


輪廻転生信じる信じない方でも、生きて行く為には純粋なる本来の自分に立ち戻る事は

幸せに至る道でもあるのです。

ここが理解できていないから、いろんな現象を引き付けたり、

またカルマの堂々巡りになったりしていると思います。

それをキリスト様やお釈迦様などは苦を滅する道や幸せに至る道を説いているのです。



人間はカルマがあるから生まれて来ると言われがあります。

そのカルマを乗り越えるのも、生まれて来る目的の一つだされています。

そうであるならば、今を目覚めて純粋なる存在に立ち戻る為には悟りとか、悟る事は大切なのです。

これらは想念体の中にある物のエネルギー解放を含めて自分は言っていますが、

あまり悟りとか言葉に囚われる事はなく、本来の自分純粋なる存在に立ち戻り、

自分が自分になるのです。

またこういう事も言えます。自分が自分をする

でも、こう言った環境やまた魂の準備が整っていなかったなら、

別世界の事、私達とは別で一部の宗教狂いだけと感じてしまうかもしれません。

それはそれで良いと思います。

今の段階ではその方にとっては完璧なのですからね。

もし魂しいの準備が整ったなら、そのような体験する事があるかもしれません。


聖書箇所:マタイの福音書7章7〜11節

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。

たたきなさい。そうすれば開かれます。 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、

たたく者には開かれます。 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。

また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。

してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。

とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。




  精神集中
Date: 2014-02-11 (Tue)
神人合一体験は不立文字です。

一種の三昧になって、神の力との合一がおこる

対象になりきった自分をも対象をもポンと捨てられるかどうかに、悟りが開けるかどうかに掛っているのです!?


逸話などに記載されています。

a.逸話(本当かな?)

 ニュートンには逸話が多い。その中でも有名なのが、「リンゴが落ちるのを見て万有引力を発見した。」であろう。

 他にもぼけーっとする癖のためか、「卵と間違えて懐中時計を茹でた」、

「ズボンをはいていないことに気がつかず、そのまま役所に出勤した」、

「馬がつながれていない手綱を引いて歩いていた」、「夕食を忘れるのはしょっちゅうだった」

(召使いはそれを期待していた)などの逸話がある。

 もちろん真偽のほどは確かではない。しかし、端から見るとぼーっとしていることはよくあったらしい。

でも、「ぼけーっ」としているといっても、本当にぼけーっとしている凡人と異なり、

そう見えるときのニュートンの頭の中は、何かを集中的に考えてフル回転しているのだ。その集中力のすごさを示すものであろう。


インドではこんなお話が伝えられていますグッド!

ある有名なヨガの行者のところに青年がやってきたそうです。

その青年が自分も行をしたいから、弟子にしてくれと頼んだのです。

行者は弟子を受け入れ、さっそく精神集中から始めさせたようです。

それがどういう訳かうまく精神集中ができません。

いろいろ手を変え品を変え、やって見てもうまく行かないんです。

その行者は、弟子になった青年にこう尋ねたそうです。

お前の一番好きなものはなんだ?

するとその青年は自分の飼っている牛がいて、その牛が非常に可愛い。

その子牛が世界中でも何より好きだと言うのです。

そこで行者は青年に、それならもう精神集中などしなくていいから、

朝から晩まで部屋に坐ってお前の好きな子牛の事を考えていろ。

鼻面形・眼の形・耳・角・全身を頭の先からしっポの先まで、

何度も細かく頭の中に描いていればいいと教えました。

それから数週間、部屋にこもって子牛のことばかり考えていた青年に、行者が声をかけました。

「もういいよ、出て来なさい。」すると部屋のなかから、青年がこう答えたというのです。

「出て行きたいんだけど、角がつかえて出られません。

つまり自分の好きな、子牛の事を一心になって考えていた青年は、

数週間もそれが続いている間に、自分がその子牛なってしまい、

部屋を出ようとしたときに角がつかえて出られなくなってしまったというわけです。

対象になりきってしまうというのは、まさにこの青年の状態で、

こんな状態を「三昧」と本山師も言っておられます。


  苦痛の中から悟って行った2
Date: 2014-01-20 (Mon)
自称我は〇〇なりと言って、そんな人は、世の中にはごまんといるのです。

宗教団体の信者の中には、団体の数の事を言ったりして、それがすなわち如来・菩薩の証しだとか、

またチャネラーの事をイタコ同然のように扱ったりする方がいますが、本当は物の数ではないのです。

たった一人でも良いのです。

そのたった一人の方が、世の中と言う機関車を動かしていけるような方ならば

その方に伝えられたらそれで良いのです。

世間では財を持てれば、それが出世だとされていますが、それを持って帰る事はできないのです。

持って帰れるのは、思いと行いなのです。

いくら教学を学んで知識を詰め込んだとしても、知った事にはならないのです。

それを体験してはじめて理解できるのです。


開祖にしても恵まれた家庭ではなかって、イエスとその弟子十二使徒の一人にペトロがいますが、

職業はガリラヤ湖での漁師をしていました。

ゼベタイの子ヤコブもガリラヤ湖の漁師であったとされます

イエスの養父。職業は大工であったという

人間としての肉体を持つナザレのイエスは、紀元前4-3年頃に聖母マリアの処女懐胎によってベツレヘムに生誕し

ナザレのイエスは大工の仕事を生業として、あったそうです。

敬虔なユダヤ教徒として旧約聖書を読み、

ユダヤ教の礼拝所であるシナゴーグへ足繁く通ったとあります。




偉大なる存在 光のかけ橋 
テーマ:心の世界と繋がる癒しのエネルギーブログ

2013-05-24 19:59:57
日蓮聖人は、12歳で親元を離れて近隣で一番大きなお寺だった清澄寺に勉学のために入りました。

16歳の時、正式に僧侶になりますが、その出家の目的は明確で、現在の仏教界に対する疑問解決のためだそうです。


親鸞聖人は年9歳の春、聖人は慈円(じえん)のもとで出家得度(しゅっけとくど)し範宴(はんねん)と名のられ 

以後29歳までの青春まっただ中20年間、比叡の山で仏教の学問・修行に励まれたそうです。


弘法大師空海は 香川県に生まれる。家庭が貧しく、頬がこけるまでにやせており

農民が「空海、なんか食うかい」と話しかけたほどだと伝えられている。

捨て子同然で幼少時より仏門に入ったそうです。     


道元は三歳の時に父親が亡くなり、八歳の時に母親が亡くなった事で、小さい時から孤独の境涯にさらされた。

13才で比叡山に上がられた。14才で出家比叡山で一所懸命修業されたそうです。



高橋信次 心の発見(引用)

ひかり光のてんし天使、すなわ即ちしょにょらい諸如来、しょぼさつ諸菩薩のことなり。

このげんしょうかい現象界は、しんぶつ神仏より、いっさい一切のけんげん権限をひかり光のてんし天使にゆだ委ねしところ処なり。

ひかり光のてんし天使は、じひ慈悲とあい愛のかたま魂りにして、あ彼のよ世、こ此のよ世のしょれい諸霊をみちび導かん。

さら更に、しょ諸てんぜんじん天善神あり。もろもろ諸々のしょれい諸霊をいっさい一切のま魔よりまも守り、ただ正しきしゅじょう衆生をようご擁護せん。」

何んとか菩薩、何んとか如来、或は何んとか大明神なんて言われると、

もうすでに神様だァなんて思うでしょうが、残念な事に彼等は神様ではありません。

若し神だ!なんて名乗ってきたら動物霊です。人間は盲で見えないので解りませんが、

神だ!仏だ!菩薩だ!と言って出て来る連中は絶対に正しいものではありません。


なぜならば、如来や菩薩たちが出て来る時は、絶対に盲の人生を歩んでいる人々に対して、脅迫的な観念は与えません。

安らぎと調和の言葉をもって、心に光を入れて行きます。

だが、日本の神様はよく霊媒を通して威張って出て来ます。

我こそは何んとかのみこと尊なり、信じざる者頭が高い、と殿様のような態度を示します。

そんなものではありません。盲の人生を、自分の可愛いい子供たちが、

この地球上で修行して、酷しい環境の中で苦しんでいる時に、なぜそのように、神は無慈悲な言葉を使うのでしょうか。

愛と慈悲に満ちた言葉で、皆さまの心の安らぎを与えて行くものです。

 それ故に今後、我こそは稲荷大明神なり、我は何々と出て来る連中をよく見て下さい。

まず、その人の家庭、行動等を見る事です。これはおか可笑しい、と思ったらやめる事です、

深入りしない事です。一番重要なのは、本当にそういう人たちであるならば、

心は綺麗で、人を恨む事も無く、自分というものをよく知り、家庭も円満で平和です。

そうゆう事を確かりみてから、正しい目で皆さまは判断しなくてはいけません。

このように、諸天善神というものは、特に稲荷大明神とか、龍王と言われる連中があの世におります。

インドの当時は、ナガー・ラージャンと言っておりました。ナガー・ラージャンと言うのは龍王の事です。

ナガーとは動物ですが、動物といえども神の子、万物の霊長に進化するための過程なのです。

万物の霊長たる人類は、神の子として同じ形を持ちながら、闘争と破壊を繰り返し、動物的本性というものを捨て去っておりません。

闘争的な破壊活動、争い、戦争、このようなものは、万物の霊長に進化する過程の動物のやる行為なのです。

こうゆう事を知ったならば、動物霊たちも矢張り同じように神の子なのです。

ただ彼等は神の子としての本性を知らないために不調和な行為をする。

そうゆう動物霊たちを、仏教で言う菩薩界につれて行くまで、神の子としての神理を教える使命を持った者たち、こういう者たちを龍王といっております。

 稲荷大明神というのは、そのような動物たちの指導者で神理を教える純然たる神の子人間です。

菩薩界まで進化する魂の浄化する過程において、彼等はその心を自分で身を持って体験して来なければならないのです。

しかし菩薩界まで行く過程で、動物を支配する途中で失敗する者が多い。増上慢になってしまうのです。

神界の上段階の連中が、菩薩界に行く途中、例えば力士であれば、

幕内から小結になり、関脇になり、大関になって行く途中、矢張り相撲取りでも増上慢になりますと平幕に落ち込んでしまいます。同じです。

 あの世でも、つい動物たちがチャホャしたり、色々手伝いもしてくれます。

現象界の盲の人間が、商売繁盛を願いこんこん狐々さんを祭ります。

いつ時は感謝もしますが、いつか忘れてしまいます。商売繁盛に協力した動物たちに挨拶もしない。

すると彼等はムクレてしまいます。〃何だ商売が繁盛するように、一生懸命こっちは、してやったのに俺たちの事を忘れやがる〃と

必ず文句をいって来ます。やがて動物霊たちは不調和な環境を支配しはじめます。

家族に現象が出たりして家の中は混乱してまいります。

そこで神と自称する所へ拝みにいくと、〃貴方の家は稲荷大明神に供養が足りないからたた崇っている〃といわれ、

こんどは一生懸命に、ちがった方法で、拝むようになる。その人たちは、欲が所詮深いですから、又やり出すのです。

やればやる程混乱して泥沼の中へ足を突っこんで行く。

そして最後は、死んだ時には動物界におちたり、人にひょうい憑依したり、じばく自縛れい霊になっていきます。

そうゆうように非常に危険なものです。〃さわ触らぬ神にたた祟り無し〃という諺があるように、一つ間違えば宗教も阿片です。

 一方、不動明王とか弁財天という諸天善神もおります。弁財天というのは決して皆さまが金持になるために協力するのではありません。

真の弁財天というのは、中国の四世紀時代に出られた方です。それは財は財でも丸い方の財ではありません。

皆さまの過去世においてある時は王様の体験をし、又天文学を学んだ事もありましょう。

あるいは貧賎の生活の中で人々から白い目で見られ酷しい生活をして来た人もありましょう。

そのような皆さま自身の内在された偉大なる智慧、心の中にあらゆる体験を探り出す、

このようなものを司どり、協力する光の天使を弁財天というのです。

不動明王と言われる方は、善なる人々に近寄ろうとする次元の違った悪魔たち、又悪魔の憑いた人々を、皆さまの周辺から護ってやろうという天使たちなのです。

諸天善神とはそのような使命を持っている人々です。

 
実在界を通して見れば、諸如来、諸菩薩は心の内面を教え、諸天善神と言うのは善なる心の人々を擁護するために協力している光の天使です。

前にもふれたように光の天使が地獄界にまいりますと、地獄界はパァーツと昼間のように明るくなります。

地獄界の者たちは、神が来たあるいは太陽が出て来たとおどろきます。

そういう現象を縁として彼等は自分自身を悟ってゆくのです。

然し彼等はこの地球上において神の子としての使命を忘れ去ったために、その原因が結果となって現われたのですから、

あく迄もこの地球上という場所を縁としなければ彼等自身は悟れないのです。

地獄界に落ちた原因はこの地球上と云う場ですから、その故に皆さま自身は地獄に落ちている人たちを救う力を持っているのです。

修行はこの地上界であるからです。それ故に私たちはこの地球という場所においてこそ、

亡くなった先祖やあるいは地上界を去る時に執着を持って地獄界にいる迷える人たちを、救う事が出来るのです。

然し大事なことは自分自身が神理を悟らず、地獄界のような心で彼等にお経をあげたところで、

かえって皆さん自身が疲れるばかりでなく、心の不調和を呼ぶと同時に苦しみと悲しみを更に撤き散らして行く事になるという事です。

本当に先祖に供養しようと思えば、まず自分自身の心を清らかにして神理を実践し、

そして先祖代々の諸霊に対して模範を示すような生活行為を実践し、神理を教えていった時にこそ、本当に彼等は救われてゆくのです。

 諸天善神は皆さま自身の心のそばにおります。魂の兄弟たちも又皆まんの調和と安らぎのために協力をしております。

それを受け取るのは皆さまの日々の生活行為いかんにあると言う事であります。



  苦痛の中から悟って行った
Date: 2014-01-16 (Thu)
インドの古代、ゴ―タマ・シャタルダーはマヤ脇のの下から生まれ、質ぽ七歩歩んで「天上天下唯我独尊」

いいったとかいう伝説があるが、あれは後世の人々ゴータマを神格化するための作り話であり、

またイエスには、マリアの処女懐姙説などがあるが、いずれも神のように祀り上げられてしまった人間の偽説であり、

このような事実はまったくなかった。

一般の子供と同様に育てられ、ただその環境や現象に無常を感じ、

苦痛の中から悟って行ったと言う事で、これは人間がすべてがそうしなければ到達できない。

修行しなければならない現象の定めなのである。

また高橋信次師はこのようにも言っておられます。

諸如来、諸菩薩は心の内面を教え、諸天善神と言うのは善なる心の人々を擁護するために協力している光の天使です。

高橋信次(引用)


高橋信次先生は言っておられます。

八正道は己の心を中道という調和に引き戻す神の模範、

心が自然についていける自分自身になった時に初めて菩薩の行が整ってくると言われています。

八正道も知らず、心の調和も為し得ない者には菩薩行は為し得ないと言われています。

高橋信次先生や園頭広周師がおっしゃる理由がまさにここにあります。

八正道は小乗であって、小さな悟りと言われているそうですが、正法には大乗も小乗もないそうです。

八正道が実践できてこそ、霊性が高いと言われるものだと思っています。


菩薩という者は本来は悟った魂だと言われています。

終世を救いたいと下生して、生まれてくると聞きます。

一般の子供と同様に育てられ、ただその環境や現象に無常を感じ、

苦痛の中から悟って行ったと言う事です。゜


あの聖フランチェスコも初めから聖人ではなかったのです。

聖フランチェスコは自分の考えのあやまちに気がついた瞬間は、フランチェスコの人生にとってこの上もなく重要なものになったそうです。

バーソロミューの書物によると、若いときのフランチェスコは自分達と同じ情欲や金銭欲を持ち、

酒や女や快楽や権力への欲望を持っていたそうです。

そして多くの罪深い行いをし、自分の欲望を追求し始めたそうです。

それでも自分の求めていた喜びが、思ったほど得られないと気づいたみたいです。

私は欠陥の多い人間である。

善人になるなど不可能。

それなら完璧な罪人になろう。

自分の欠陥を無限におしひろげよう。

その完璧のなかから、自分の人生に喜びと調和が見出せるのではないか、

フランチェスコはジレンマに陥り、善人にもなれないし、欲望に身をまかせても幸せをもたされない。

フランチェスコは、意思の深いレベルで、死の現実と対決する事を選択しました。

常に思い病気を選び、その病気によって死にかけました。

その病床で、心の境界線が少しずつ崩れ、高熱にうなされる状態のなかで、悟りを得たみたいです。



  ■ 神人合一の体験は不立文字です。
Date: 2014-01-15 (Wed)
悟り(見性)の事をときどきいいますが、師のご指導なくしてはとても達成できるものではないと思います。

これは佛教界の開祖などが、経典に残されているものです。

それを体験するというのは、今の時代では尚難しいと思われます。

スピリチャル系の方でも、こう言った体験を語る方はいませんでした。

また徳の高いと思われている団体の創立者の方などもあまりいないように思います。

これは正道を歩んでおられる師匠の恩恵によって開けると思えますが、自分で体験する以外はありません

神人合一の体験は不立文字です。


■ 結果を求めるのではなくて、なりゆきが大切

Date: 2012-06-06 (Wed)

開悟といっても、迷っていたのがいま悟りを開いたというのではない。

本来ひらいている悟りをいまここでひらく。これが開悟です。

またこう言う事を言う人が必ず出てくるんですよね。

本来悟りを開いているのなら、何もしなくても悟っているんだから、何もしなくても良いと言っている方もいましたが、

いいですか?本来ひらいている悟りをいまここでひらく。これが開悟です。

だからここを勘違いしてはいけません。


悟りというものは悟りたいと思っているうちは悟れないんです。

自分の言っている事はなかなか理解できないかなと思います。

悟り、悟るとか?そう言っているうちは開けないと老師や覚者も言っておられますね。

悟りを目指して。悟りたいと思っているうちは悟れないと思います。

弓道は的は狙ったりすると矢は外れると聞きます。

いかに自然体が大切だと言っていました。

結果を狙えば、的は外れると思います。

結果を求めるのではなくて、なりゆきが大切だと思います。

これは悟りに関わらず何事に対しても同じ事だと思います。


その悟りたいという執着を手放しにしないと悟り(見性)体験はできないかと思います。

その意味においては覚醒や悟り(見性)を開くのに何も必要なものはなく、足りないものもありませんが、

だからと言って足りないものはないし、今のままで完璧だからと悟らなくともよいと言うのではありません。


覚者は悟りといっているうちは悟れないと言っていますが、完璧だから何もしなくて良いとは言っていないんです。

悟りにこだわるから悟れないと言っているだけなんです。

その為には必要なものもないし、足らないものはないといっているに過ぎません。


  認可して貰う必要はないのです。
Date: 2014-01-15 (Wed)
お釈迦様が霊鷲山の集まりで、何も言わずに、蓮の花をすっとお示しになりました。

その時に、それを見て摩詞迦葉尊者お一人がにっこり微笑まれました。

しかし、その意味は誰にもわかりません。

大勢いて、その中のたった一人の摩詞迦葉尊者だけが理解できたのです。


実際は言葉や文字では、究極のところは伝わりません。

いくら人が知らない難しい言葉を並べて、納得させようが、

文字や言葉では伝えることができないのです。

いくら体験したとか、心の変化があったとしても、

悟っていない師に認可して貰ったところで自己満足になるだけなのです。

たとえ認可されようが、悟った上で、修行が大切なのです。

この事が解らなくては、悟ったと言われないのです。

まして、見性認可して貰う必要もないのです。



■ 心から心へ直接の体験

Date: 2012-05-22 (Tue) 光のかけ橋

今からおよそ2500年前にお釈迦様が悟りを開かれて、お釈迦様の悟りが修行僧の心から心にと伝わったと言われがあります。

正道の実践の積み重ねによって悟りが開かれて行くのでしょうね。

実際は言葉や文字では、究極のところは伝わりません。

釈尊の教えの真髄は、文字や言葉では伝えることができないと思います。

お釈迦様が霊鷲山の集まりで、何も言わずに、蓮の花をすっとお示しになりました。

しかし、その意味は誰にもわかりません。

その時に、それを見て摩詞迦葉尊者お一人がにっこり微笑まれました。

この摩詞迦葉尊者ただ一人だけが微笑まれたと言うものでした。

このお釈迦様が一輪の蓮の花をお示しになり、見てにっこりされたと言う事は、

お釈迦様の悟りが摩詞迦葉尊者の心に伝わっていったものだと思います。


心から心へと、直接体験によってのみ伝えられるとするのが、教外別伝の意味するところと言われています。

したがって、教外別伝とは教のほかに別に伝があるのではなく、

師から弟子へ、心から心へ直接の体験として伝えることみたいです。

また師から弟子へと伝承するというのは、弟子の目覚め(悟り)にほかならない とするのが教外別伝の内容と理解していいと思います。

弟子は、師匠の日常の立ち居振る舞いを見ながら、自己を磨いていくのです。

何事も自分の努力で体得して、初めて自分のものとすることができるというものです。

また、目に見えないものを見抜いて、初めて心から納得することができるのです。





  主体と客体の合一
Date: 2014-01-02 (Thu)
正しい坐相によって、自分が対象物に溶け込み一体となることが、主体と客体の合一な体験であります。

対象になりきった自分をも対象をもポンと捨てられるかどうかに、悟りが開けるかどうかに掛っているのです。

眼の前にあるのは壁、正しい坐相をねらって筋肉と骨格で、思いを手放し

雑念にふりまわされず、祗管打坐して行く事が大事だと思います

主体とは自分自身のことであり、また客体とは対象物を指します。

一種の三昧になって、神の力との合一がおこる

なりきるとは、我を忘れて対象物に溶け込む主観と客観の合一だと思います。

座禅修行や瞑想においては、スカッとする時もありますし、気分が滅入る事もあります。

曇りには曇りなりに、雨の日には雨の日なりに、晴れの日には晴れなりに、

その時、その時の生理現象、心理状態がある事が当然であり、

それはそれにふりまわされず、その風景として手放しをして行くことが大事みたいです。


鳥の歌声のパワーによって、ついに・・・・
テーマ:心の世界と繋がる癒しのエネルギーブログ

2012-05-21 23:12:33
聖者と言われる聖フランチェスコは、このように悟って行きました。

聖フランチェスコはその病床で、心の境界線が少しずつ崩れ、高熱にうなされる状態のなかで、

聖フランチェスコは愛したいけど、どうして愛したらいいのか解らないというジレンマ・・・・。

全身が疑問のかたまりのようになって、何日も苦しみが続き、不安が増し、

イライラと絶望がつのり、もうすぐ夜が明ける頃、外窓の向こうで、一羽の鳥が鳴いたそうです......。

その鳴き声をフランチェスコは今までとは全く違うように聴こえました。

その鳥の鳴き声が今までとは全く違うように聴こえたとありますが?

それは次第に普通の意識状態を超えて、そういう心理状態が限界を超えて、

我をわすれて、そのものそれになりきった時、何らかの感覚の縁にふれて、

そのものになりきって、(ものになる)ところに本来の自己が現れるものだと思います。

最後に一瞬の飛躍があって、その鳥の歌声のパワーによって、ついに・・・・聖フランチェスコは悟ったのです。

そのとき初めて、本来の自己を悟ると言うものだと思います。


  悪しき習慣やカルマを終焉を迎えさせるためには
Date: 2014-01-01 (Wed)
自分の体験上、伝えたいものの一つでもあるのです。

清浄なる本性、心の空性は清浄空である本性は、

けっして失われたり、そこなったり、曇ったりすることはないと思います。

気体(蒸気)になったり、液体(水)から固体(氷)というように、三つの相に変化する。

気体、液体、固体という三つの相に変化しても、水の本性H2Oには変わらないといっています。

水は低温になったら固体(氷)となります。

また水は高温度(蒸気)になって沸騰したら、水蒸気になり、また雨となって地上に

降下によって再び液体(水)や固体(氷)に変わります。

でも、その水の本性は変わらないのです。

またお皿の上におかずの汚れものがあれば、洗えば綺麗になって皿だけになります。

そのおかずの汚れものを取り除く事によって、綺麗な皿だけになります。

そのように原初土台は不純物がたとえ付着したとしても浄化する事ができます。


悪しき習慣や知識や自覚は想念体にあるカルマのエネルギーとなり、

異熟され、実を結び、結果となって自分に返ってきます。

たとえそのような現象が現れていても、清浄なる本性はけっして失われたり、

そこなったり、曇ったりすることはないのです。

人間の心も悪しき習慣やカルマはブーメランのように自分にかえってきます。

でも、その本性である本質土台は変わらないのです。


では、その悪しき習慣の循環原理を終わらせるのにはどうすれば良いのか?

どぶ水はどぶ水で洗っても綺麗にはなりません。

ある師家の方などは、それは血で血を洗うようなものだ。

血は水で洗わなければ、決して綺麗にはならい。

その血を洗い流す水が、無の字なのであると言っています。

そのためには本性の土台に到達することがなによりも大切な事だと思います。

すべての現象は心の中の出来事は現実経験される対象でもあり、現れ続けるみたいですが、

悪しき習慣やカルマを終焉を迎えさせるためには克服する必要があると思います。




  根本的な癒し
Date: 2013-11-07 (Thu)
心の浄化をなされていなかったなら、深層意識の中には抑圧された葛藤や記憶のエネルギーがあるのです。

これはブロック解除や思考をいくら入れ替えても、この抑圧された葛藤や記憶のエネルギーはなくならないのです。

実はこの事を知っている方は、実際はあまりいないのです。

これらは体験があって、初めて知る事になるのだろうと思います。

いくら臭いものに蓋をしめても、これではいくらハエを追い払ってもハエは去っていきません。

そこに臭いものがある限り、ハエを追い払っても追い払ってもハエは一向に去らない

これと同じように深層意識の中にある記憶や抑圧されたエネルギーの解放なくして、

根本的に癒しは起きにくいのです。

また自分はヒーリングとかは効果がないと言っているのではなくて、その方の心の浄化されないうちは

根本的な癒しは起きないと思っているのです。

もしヒーリングとかで一時的に症状が良くなっているように見えるかもしれませんが、

それはヒーリングによって良い影響が起こった場合もあると思います。

それ以外に信じる心が良い影響を及ぼしている大多数だと思います。

もしそれで良い方向に向かって行ったとしても、

深層意識の中には抑圧された葛藤や記憶のエネルギーがあれば別な形で新たに現れてくるのです。

一時的に癒されたのかもしれませんが、根本的に癒されたいのであれば人任せにしないで心の方向性を変えて

心の浄化に努めていかないと、根本的には何も解決されないと思っているのです。

ここでの心の浄化については、想念体の事についてです。

想念体とは過去世の記憶と現世の経験の記憶集積所

潜在意識と表面意識の混ざりあった世界と言われています。

この想念体はカルマの素に例えられる事ができると思います。

本山先生はカルマを解く時に大切な事は、そのものになりきると言う事をおっしゃつていますねぇ〜

なりきることで、一種の三昧になって、神の力との合一がおこる

なりきるとは、我を忘れて対象物に溶け込む主観と客観の合一だと思います。


カルマの大奇跡・本山博(引用)

本山先生は(カルマの大奇跡)神への祈りがカルマを解放すると言っています。

苦しみをいかに解くのか、それを解くためにいかに神に祈るか教えられたら

ひたすら神に祈る事が大切です。

神に祈ってカルマを解くときに大切な事は、悟りにおいて経典を唱えるの声になりきる

あるいは心の内で唱える時にその心の声になりきることである。

一種の三昧つまり神の力との合一が達成される。

それは一瞬であろうとも、数分間であろうとも、カルマを超えた世界にいるのです。

その時カルマは自然に解けるであろう。

では、祈りやヨガの精神集中、瞑想だけがカルマを解く方法かというとそうではない。

日常の生活の中でカルマを解き、霊的に成長する事ができる方法がある。

「超作」である。

超作とはひとつひとつの行為を結果をもとめないで最善をつくして行うことである。

いかなる結果を生じようとも、自分に有利な結果が生じようとも、不利な結果が生じようとも

それをそのまま受け入れ、それにとらわれなければ、結果によって喜んだり悲しんだりする自分をも超える事ができる。

これが超作なのです。


  デタ―を塗り替える?
Date: 2013-09-15 (Sun)
カルマの事についてはいろいろな見解があるようですね。

カルマを燃やしたり日々綺麗にして行くと言っているティチャ―がいますが、

何をどのように燃やし、どのように綺麗にしていくのか?

過去の体験した事が、いま自分に返っているからカルマを解消していたり、

またカルマを燃やしたりしていると言う事なのですか!?

しかしそれはカルマと言うパンドラの箱を開けてないから、そのようにしか言う事ができないのです。

何故古庵がそんな事がいえるのかと言いますと、自分はそのカルマの箱を開けているのです。

想念体に亀裂が入って、その中にあるエネルギーを解放する事は、カルマの解消に繋がると言っているのです。

自分が言いたいのはお店に売っている飲料水にはいろいろな種類のものがあります。

天然水もあればお茶もあり、炭酸飲料やコーヒーも紅茶もあります。

コヒーや紅茶などはお水の中に原料を入れていて濾していますが、元はお水なのです。

飲料水の中に入っている原料を取り除いたらただのお水なのですよ。 

いくら深層意識の中にあるデタ―のソフトを塗り替えると言ったって、

深層意識の中にある不純物な物のエネルギーを取り除かないと、なかなか浄化はできないと思います。

軽い程度の原因不明の病気なら治まってしまうかもしれませんが、

大きなエネルギーを背負っている方などはなかなか時間がかかると思います。

要は深層意識の中に物のエネルギーをいっぱい集めているのです。

過去のトラウマを感じたり、思い出したりしたら、過去の記憶が蘇ったりしてきますよね?

過去に悲しかった事や辛かった事、怒ったりしたらその時の感情がエネルギーとして残っているのです。

だから思い出した時などは、同じように記憶が蘇ってきて苦しくなるのです。

これは深層意識の中にある物のエネルギーが解放されてないから、同じように繰り返してくるのです。

そのエネルギ―を解放してやれば、いくら過去を思い出しても

もう〜その時のトラウマの感情は気にならなくなるのです!!


催眠とかで暗示で押さえつけたりして塗り替えると言っている方もいますが、

本当の意味で解放・浄化は抑えつけるのではなく、解放してやればいいのです。

炭酸飲料の蓋をあけて出尽くせば。その泡が無くなって穏やかな湖面のようになり、

月を宿す湖面のようにお月さんを損なわず映し出すようになるのです。

またカルマを乗り越えるのは、今世での目的でもあるのです!!

原因結果の法則があるのですが、自分の思いや行いは責任が伴います。

それは自分が選択して、選んだものだから、

乗り越えるのも自分自信で乗り越えて行かないといけないのです。

誰も肩代わりできないし、代って身代わりなどはできないのです。

でも、身代わりになったり、肩代わりしている方がいると言いますが、

何を持っての?真実なのか問うてみたいですね。

その肩代わりや身代わりなど出来ない事を自分は良く解っているのです。

それだけ厳しいものなのです。

しかしそのカルマを開けたと言う方は少数しかいないのです。

ただ、精神的に進んでいる方は。結構カルマが早く返ってくるみたいな感じがします。

それと機械的に処理されているようなものですが、これは宇宙の法則には原因や結果の世界が真実なのだと思います。

誰にでも同じように生まれてくる目的にカルマを解消する目的があるようです。

古庵はその生まれてくる目的の一つを開いただけなのです。

だから、偉くもないし、偉大でもないのです。

ただ、言える事は同じ人間だから同じ体験はできるのです。

あたりまえの事をして、あたりまえにして行くだけなのです。





  どっちに転んでみても御いのち
Date: 2013-09-08 (Sun)
あるヨーガの老師などは集中を通して観察、やがて悟りに到るみたいな事を言っておられます。

またある方はそれはヨガの一面的な悟りだと言っています。

自分としては偉そうな事を言うつもりはないのですが、どの道から入ろうとも頂上を目指して行っているのに違いはないと思います。

また真理伝道している方の一部には、肉体行を批判する方もいるのですが、

お釈迦様は肉体行は誤りを知って、八正道の尺度で己の心を修正して行ったと伝えられていますからね。

でも、今の時点でその方の必要な事かもしれませんから、

その時その時に応じて対処していけばいいんだと思います。

釈迦は真理への道をたどろうとするならば極端を離れて 「中道」 を歩むべきだと説いた言われています。

釈迦は初めての説法で修行者たちに次のように説いたそうです。

「苦行で身体を痛めつけ続ける者は、疲労と衰弱で精神の集中が妨げられ、通常の思考すら、

ままにならなくなる。そんな状態で、どうして真理への道を歩いているといえるだろうかと言う事みたいです。

それも最初は肉体行をしていたのだけど、それでは悟れないとハッと悟ったと?言う事みたいです。

凡人の自分は山頂に歩いて上がるのに、道に迷う事もあると思います。

これが正しい道だと思っても、進んでいったら道に迷ったり、

また谷に落っこったりする事もあるかもしれません。

そんな時はまた元の道に戻っていけたらいいんだと思っています。

二元論の世界では、両方を体験して少しずつ知恵がつくのでしようかね。

この世は合格・不合格のない世界だと思いますからね。

だから自分の信じる事をしていけば良いんですよ。


雨がふれば傘をさしますよね。

いきなり家の天井から雨漏りがして、頭がぬれるのなら近くにあった網のザルでも取って頭を塞げれば良いんです。

それを普通の方はザルの網だから可笑しいと思うかもしれませんが、修行をしているのならこれが大切な事なんだと思います。

毒矢の例え話もあります。(高橋信次・心の対話)

毒矢を射った者はか?どんな種族か?矢はどんなもので作られているのか?

いちいち詮索していたならにば、毒矢にあたった方は死んでしまいます。

今ここでいちばん緊急を要することは、一刻も早く、毒矢を抜き去り、一命をとりとめることです。助けることなんだそうですよ。


  想念と行為を記憶し続けています。
Date: 2013-09-07 (Sat)
想念体というものは、テープレコーダーと同じように、二十四時間テープが回転し、

その方の想念と行為を記憶し続けています。

この想念体には、カルマの巣みたいにサイダーの泡如くエネルギーが詰まっています。

ここを開けたというのはサイダーの栓を抜いて、その中からいっぱいのカルマのエネルギーがサイダーの泡如くあがってきます。

この宿っているエネルギーはカルマの巣でもありますからね。

その想念体に亀裂が入って?

サイダーの泡如くカルマ〔因縁〕の泡如く噴出しているものを出っ放しにしておけば泡もなくなり、

だんだん弱いあぶくのようになり、全て出尽くしてしまえば、波のたたない湖面のように穏やかになります。

いつかは綺麗な湖面のように、月を移す鏡のように綺麗になれば

そのような状態になって、カルマが少しずつ浄化されて行くと思いますよ。

また原因不明の病気とか科学では立証できないものや

身体のエネルギーバランスなとが改善されていくと思います。

行きはよいよい帰りは怖いとはことわざもあります。

自分の思いと行いには責任が伴いますからね。

日頃の思い行いをきちんと対処していかないといけません。



157] ■ 原因不明の病気やネガティヴな未来 Date:2012-02-01 (Wed)

深層意識(コップ)の中にあるデタ―(水の汚れ)をいくら暗示と言うデタ―を入れ替えても

どぶ水、灰色の水、真水になるのには随分時間がかかると思います。

デタ―自体はなくならないと思いますから、その(深層意識)瓶の蓋あけて、(深層意識の中にある水の汚れ)

感情のエネルギーを意識上に解放していけばいいんだと思います。


サイダーには炭酸が入っています。

その炭酸(感情のエネルギー)の入っている瓶の蓋を開けたら

その炭酸が抜けてなくなりゆるやかな水だけになります。

だから深層意識の中にある感情のエネルギーを意識上に解放してあげればいいと思います。

それにはお釈迦様の言われている八正道がありますね。

苦を滅する道がある。

それは八正道だとお釈迦様は言っておられます。

八正道の中の一つに正しく思うがありますが、思うことは考えること、

思う行為は考えることは、想像行為でもあり、自己の運命をよくしたいと思うなら、

まず正しく思う事をしなければならないと高橋信次師は言っておられますね。

そのためにはモノの見方から変えていかないといけません。

八正道の最初に正見があります。

正見の尺度は神の心なのです。

その出発点は第三の立場で、自分を見、相手を眺める

だから八正道の最初に正しく見るから始まっていると言われています。

それから正思(正しく思う)、正語(正しく語る)正業(正しく仕事をする)正命(正しく生活)正進(正しく道に精進する)正念(正しく念ずる)正定(正しく定に入ること)と続いています。








  八正道
Date: 2013-09-07 (Sat)

お釈迦様は人生について悩み29歳の時に出家した釈迦は、6年間の修行の末

35歳の時に、真理に目覚め悟りを開いたと言われがあります。

釈迦は初めての説法で修行者たちに次のように説いた。

「苦行で身体を痛めつけ続ける者は、疲労と衰弱で精神の集中が妨げられ、通常の思考すら、

ままにならなくなる。そんな状態で、どうして真理への道を歩いているといえるだろうか」

釈迦は真理への道をたどろうとするならば極端を離れて 「中道」 を歩むべきだと説きはじめた。

お釈迦様のお話の中に、琴の音色の事について話しています。

弦の緩みがあれば音はなりません。

弦を張り詰めると、弦は切れてしまいます。

琴の音色の音を出そうと思えば、丁度良い張りかたがあります。

右にも左にも偏らず、極端な思考や生き方をせず、中道の生き方が大切だとお釈迦様は説いています。


中道とは次の8つの正しい道(八正道) だと示したのである。

◎正見 ( しょうけん ) = 正しく物事を見る

◎正思惟 ( しょうしゆい ) = 正しい心の持ち方

◎正語 ( しょうご ) = 正しい言葉を話すこと

◎正業 ( しょうごう ) = 正しい行いをすること

◎正命 ( しょうみょう ) = 正しい生活を送ること。

◎正精進 ( しょうしょうじん ) = 正しい努力を重ねること

◎正念 ( しょうねん ) = 正しい自覚を持つこと

◎正定 ( しょうじょう ) = 正しい瞑想をすること

(1.正見・正思・正語 ・・・ という順序になっているのは、この順序が想念を具象化する順序であるからである。
 2.正しくとは、神の心を基準とするということである。・・・・・・ 園頭先生解説)


 


  思考の切り替え
Date: 2013-09-07 (Sat)
ネガティブな思考になっている時などは気をつけないといけませんね。

振り子の原理ではないですけど、バランスを取り戻さなといけません。

本来の自分を取り戻さないといけませんからね。

悔い改めや反省のことなんですけど、反省して、ネガティヴになってもっと不安になったという方がいまして、

反省は心暗くなるから駄目だと言っていましたが、自分を向上するようにして行くような反省が大切なんだと思います。

瞑想する時には瞑想して、お酒をのんでワイワイする時はワイワイして、仕事する時にはきちんと仕事をして、

一つ一つをきちんと考え事をしないで、やるという事が大事な事なんですね。

まるで禅の食事の時のようなものです。

自分は食事の時に無意識で、考え事をしていまして、よく和尚さんに怒られました(汗)

それだから座禅中に考え事をするんだ、一つ一つきちんとしなさいと言われましたね。

これは非常に大切な事だとつくづく思いました


高橋信次師は反省の事についてこう言っています。

釈迦の瞑想の目的は反省にあって一日二十四時間の、正しい生活をめざすものであったと高橋信次師は教えた。

瞑想のための瞑想ではない瞑想的反省は、こうした心のゆがみを修正して本来の丸い豊かな心にするためにあるのである。

反省する場合に大事なことは、まず自分の善い所、長所をしっかりと知り、

自分にはこういうよい所があることを確認した上で、悪い所欠点はないか、ということを反省することである。

そのような反省をすると、欠点を長所に置き替えることが楽になる。

ところが反省というと、悪い欠点だけを探そうとするから、反省することが苦しくなり、

自分がいやになる。そして、悪い所だけ、不満足な点だけを見つけて探し出しているから人生が暗くなり、

自殺者が出たりするのは、そういう反省をするからであると知らねばならない。

 
Youtube-GLA関西本部

http://www.shoho.com/




  不幸と見えること
Date: 2013-09-06 (Fri)

園頭広周 正法誌より(引用)

13.一見、不幸と見えることが幸福になる前兆である

あなたが正法を一生懸命やっていたのに不幸になってしまった。

事業に失敗した。会社を辞めなければならなくなった。色々な事情で住居を変えなければならなくなった。

あるいは、何も暗い心を持ったり、人を憎んだりしたこともないのに病気になってしまった。というようなことが起こって来たとしたら、

あなたはそれを喜びなさい。それはそのことによってあなたの魂が飛躍的に向上しなければならない場に立たされているのである。

今までやっていたことが続けられなくなったということは、それはあなたがその事から勉強しなければならなかった魂の勉強は、

もはや勉強し尽くしてしまったから、もはやそこに居ても何も魂の向上にはならないから、今度は違った環境で魂の勉強をしなければならないということなのである。

既にそこでの魂の勉強が終わって、今度は別な違った環境で勉強しなければならないという事になった人が、

一向にその事に気づかずに環境を変えようとしない場合、守護霊や指導霊が強制的にその人を病気にしたり、

あるいは仕事を失敗させて、どうしても、嫌が応でも変えなければならないという状態にさせることがある。

 人生の生き方には二通りある。

 一つは、地位、名誉、金銭、物質欲を中心にして魂を腐らせてしまうか。
 一つは、魂を大事にして、そういう物に執着を持たないか。

前者の生き方はやさしいし無難な人生を送ることが出来る。後者の生き方は周囲に金銭欲、物質欲に執着している人が多いだけに苦難な道を歩かなければならない。

しかし、最後の勝利は後者の行き方によって得られるのである。

だからもし皆さんが正法を信ずることによって、生活に変化が起こって来たとしたら、それこそ魂を成長させるチャンスが来たと明るい心で迎えることである。


  正法
Date: 2013-08-25 (Sun)

お釈迦様の説法  


【 八正道 】

 正見−正しく見る
 正思−正しく思う
 正語−正しく語る
 正業−正しく仕事をなす
 正命−正しく生活する    ・・・(自分を正した生活をし、業(カルマ)の修正を図って行く)
 正進−正しく道に精進する ・・・(人間関係の調和)
 正念−正しく念じる
 正定−正しく反省をする 

(1.正見・正思・正語 ・・・ という順序になっているのは、この順序が想念を具象化する順序であるからである。
 2.正しくとは、神の心を基準とするということである。・・・・・・ 園頭先生解説)




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1.八正道とお釈迦様の反省


多くの場合、肉体の眼を通して得た自らの体験と知識は、我欲を土台にした偏見になっている。そのために、人間社会は、諸々の矛盾と撞着をつくり、自然が教える中道の心から離れているのだ。真実が不明のなっている。わからなくなってしまった。国と国との争いについても、そんのモトをただせば欲望である。自国の利益だ。自国の利益が失われる。あるいは、より大きくするために他国を侵略する。そうして、勝ったり、負けたりの繰り返しである。勝ち負けの輪廻は、その渦中から抜け出さないかぎり、永遠に続くだろう。すなわち、苦しみの輪廻は、その苦しみの中に想いが止まるかぎり、果てしなく続いていくものである。
 中道にそった調和を、人が志さないあいだは、真の幸福を摑むことはできない。

 まず人は、正しく見る目を養うこと。我欲を去った調和ある見解を持つよう努めることであろう。それには、己という立場があっては、正しさを求めることはできまい。正しさの尺度は、男女の別、老若の別、地位、名誉の別、こうした立場を捨て去って、一個の人間として、大自然の己として、そしてその心の目で、ものを見る、相手を見る、現象を眺めることである。
 調和の基本は、まず何はさておき見ることの正しい評価にあるといえよう。現われた現象の背後には必ずその現象を映し出す原因がなければならないからだ。また、自分に直接関係のある諸問題が派生したときは、まず自分自身の心の姿を見ることが大事だ。肉体の眼を通して外界の動きを正しく見るためには、その眼の奥にある心眼がキレイに磨かれていないと肉眼に映った諸現象もゆがんでしまうからである。各人の心は鏡である。その想念という鏡をたえず掃除しておくことだ。掃除は反省を通して磨かれてゆくであろう。

 「正見」につづいて、「思う」ことについても中道の尺度は必要だろう。
 思うことも、自己中心になると人との衝突はさけられまい。思うことは具象化するからである。親愛の心を持って人に接すれば、人もまたそれに応えてくれるだろうし、食べ物も、食器も、家も、着物も、テーブルも、橋も、馬車も、すべて「思う」ことから出発し発明化している。それゆえ、思うことが自己本位に流れると、人と人との調和を崩し、争いの種をまくことになろう。

 「言葉」にしてもそうだ。
 ヒョウタンから駒が・・・・・という個人の経験的な教訓は、一面の真実を語っている。相手を見下す言葉、野卑な言葉を使っていると、いつしかその言葉に自分の心までが犯され、相手の心を刺激し、争いの原因をつくる。言葉は言魂であり、生きた波動である。謙虚な言葉、いつくしむ言葉、優しい言葉、勇気ある言葉、思いやりの言葉など、正しく語ることの重要性は、人間が社会生活を営むかぎり、絶対に欠くことのできない要件の一つである。

 ゴーダマは、明と暗の心について、一気にここまで追求してきた。そして正道に入る三つの尺度を発見し、正道の尺度は、これだけだろうかと思った。気持ちをリラックスし、さらに考えをめぐらしてみた。考えると、スーッと浮かんできた。以上三つのほかに「仕事」「生活」「正進」「念」「定」の五つがうかび上ってくる。

 まず「正業」に考えを進めてみた。「仕事」は、自らの生活を助けると同時に、人々の生活にうるおいをもたらすものである。健康で、快活に仕事が出来るのは、自然の恵みと、人々の協力の賜であろう。正しく仕事をするには、まず感謝の心が大事であろう。そうして、その感謝の心は、報恩という布施の行為となって実を結ぶものであろう。地上の調和は、この「仕事」に対する心構えによって大分ちがってこよう。感謝と報恩を軸として、勇気と努力、それに智慧が三位一体となって働くときに、この地上はよりいっそうの豊かさをましてこよう。

 「正しい生活」とは、人生の目的と意義を知った生活であろう。人間の生活は、大自然が調和されているように、調和にあるはずだ。助け合い、補い合い、笑いのある生活でなければなるまい。それにはまず己自身の調和をつくってゆく。自分の長所を伸ばし、短所を修正してゆくものだ。自分が円満になれば周囲もまるくなるはずである。自己をみつめる厳しい態度をはずして、正しい生活はあり得ないものだ。

 「道に精進」とは、親子、兄弟、友人、隣人における人間としての在り方であろう。人間は大自然と人との関係を通して、はじめて自分自身の大きな自覚に到達できるものである。大自然もない、自分以外の人間も存在しないなどと考えるのは愚かなことだ。同時に、自分以外のあらゆる存在は、自己を認識するための材料であり、魂の向上に不可欠なものであろう。親子、友人、隣人の関係を通じて、自己の魂を正しく磨いてゆける現象界は、天が人間に与えてくれた慈悲でなければならない。
 道への精進は、人間の特権であり、神の慈悲である。動物にはみられぬ偉大な要素を持った者が人間であるからだ。

 「正念」、念は願いである。念のない人生、念のない生活はあり得ない。人は今日より明日を思うから生き甲斐が生まれるのであり、明日のない人生は死を意味しよう。今日に生きるものは強者だが、人間は、死の瞬間まで希望を託して生活していくものだ。その希望が自己本位に傾くと人との調和が崩れ、自分自身も立ってはいられない。念のあり方も調和という中道に適ったものでなければならないし、「正しき念」は無制限に発展する欲望をコントロールし、足ることを知った、人生の目的を自覚した願いでなくてはなるまい。

 ここで念と祈りについて考えてみよう。

 念も祈りも、ともにエネルギーの働きから生まれる。
 ものを考える、思うことが出来るのは、人間の五体の中に、そうした創造能力を生み出すエネルギーの働きがあるから可能なのである。睡眠中は、こうした能力は働かない。これは、エネルギーの休息であり、同時に、エネルギーの補給のために、人間は、睡眠中に、次元の異なる世界に旅立つからである。
 魂というと、否定するものもあろう。しかし、魂のない人間は一人もいないのだ。魂とは個性を持った意識をいうのである。睡眠は、魂と肉体との分離であり、このため、グッスリ眠ると鼻をつままれても、地震が起きても、わからないのである。眼がさめるとは、魂が肉体に入ることである。考える、思うことは、肉体がするのではなく、魂を形成しているエネルギーの働きがあるから、可能になってくるのである。
 念も祈りも、個性を持った魂の働きによって行われる。念は、人間の目的意識を表した働きである。誰々と結婚したい、出世したい、事業をひろげたい、老後の生活を安定させたい、子供が素直に育って欲しい、というように。
 人間である以上、こうした目的意識を持たぬ者は一人もいない。目的意識があるから、文明や文化が育ち、社会生活がエンジョイされてくる。
 ところが人間は、肉体を持つと、肉体にまつわる想念に支配されてくる。自己本位になってくる。これは俺のものだ、人に構っていると生きてゆけないというように。争いのモトは、こうした自己本位の想念、つまり、そうした目的意識を持った念の働きが作用する為に起こってくる。
 そこで人間の目的は、調和にあるのだし、調和とは、喜びをわかち合うことなのだから、人間の目的意識も、ここに焦点を合わす必要があるのである。
 正念は、こうした調和という尺度を通してなされるものであるし、正念の次元は、それゆえ、非常に高いものになってくる。

 仕事について考えると、仕事そのものは、社会に、従業員に、家庭にたいして、その生活を保障し、うるおいをもたらすものだ。仕事に忠実であることは、正念のあり方に適ってくる。このことは、主義や、主張や、社会制度に関係がない。社会主義であろうと、資本主義であろうと、仕事に忠実に打ち込んでいく態度は、そうした制度とは本来無関係であるからである。問題は、それによって生み出された利益、収入をどのように使っていくかによって、それぞれの念のあり方がどのようなものであったか、ちがってくる。つまり欲望を満たす自己本位のためだったか、それとも、その利益を家庭に、従業員に、社会に還元する為だったか。
 足ることを知った念の在り方は、人間は自己本位に流れやすいので、正念を生かす一つの尺度として、必要なことなのである。
 正念の在り方、生かし方は、こうした足ることを知った考え方を踏み台にして、昇華してゆくものである。

 つぎに祈りについて考えてみると、祈りは感謝の心を表し、その心で生活行為をしていく思念である。
 人間は、一寸先闇の中で生活している。明日がわからない。いつ災難がふりかかり、あるいは喜びごとがあるかも知れない。隣の人が今、どのように生活しているかもわからない。そうした中で、健康で、楽しく、明るく生活できることにたいして感謝する気持ちが湧き上がってきたときに、私たちは祈られずにはいられない気持ちになるものだ。しかし通常は、願い事に終わっている。神社仏閣にいって、こうして欲しい、ああして欲しいと手を合わせる。

 正しき生活行為、つまり調和に向かって努めているときには、その願いごと、祈りはたいてい叶えられる。正しき「祈り」は、次元のちがったあの世の天使の心を動かし、その願いを叶えてくれるからだ。この意味から「祈り」は天子との対話であるといえる。奇跡は、こうした「祈り」によって起こるものである。
 人間生活にとって、「祈り」のない生活は考えられないし、独裁者が自分以外の人間のこうした思念を押さえようとしてもおさえることはできない。

 ただこれまでの「祈り」は、我欲のそれに使われ、祈っておればタナボタ式に、なんでも叶えられると思われている。念仏を唱えればうまいことがある。祈っておれば救われるという風に考えられてきた。そんなものではないのである。

 こうみてくると念は、目的意識であり、創造活動の源泉であり、祈りは、生かされている感謝と報恩の心、進んでは神との対話であるわけである。そうしてそのどちらも、エネルギーという力の波動によって為されていることが明らかになったと思う。

 さて、「正定」についてゴーダマは考えるのであった。正定の根本は反省であろう。反省は光明世界に住するかけ橋であろう。ねたみ、怒り、そしり、そして諸々の執着から離れるには、反省をおいてほかにはない。反省を積むことによって、心と肉体の調和が生まれ、進んでは己の心と大宇宙の心との合一がはかられよう。反省をせずして、心を空にするとマーラー(魔王)、ヤクシャー(夜叉)アスラー(阿修羅)、ナガー(竜・蛇)に支配され、自分の心を悪魔たちに売り渡してしまうことになる。

 正定は反省という止観の行為でなければなるまい。
 ゴーダマは三十六年間の人生を、以上の八つの規範に照らして、洗い出してみようと決意するのだった。
 すなわち、八正道という仏法(正法)に照らして、自分の過去をふりかえることにしたのであった。

 ゴーダマは、過ぎし日をふりかえってみると、自分が歩いてきたその想念と行為は、自己保存のエゴしか見当たらないことを知ったのであった。そうして、心の遍歴について、中道という仏法(正法)の照明を当てていくと、至るところ、黒雲が渦をまき、正法に適う行為のすくなさに唖然とするのであった。父や義母に対する態度、部下との競争意識、動物愛護にしてもそのほとんどが独りよがりであったり、自己主張の現われであった。これまで六年間の山中での修行にしても、一日でも早く悟りたいという自己の欲望が先に立ち、外見にとらわれたみせかけの修行であった。悟りへの重要な課程は、心の内面に対する反省であり、正法という大自然の摂理に照らしてみて、ものの見方、考え方、とらえ方、そして、それにもとずく行動が、果たして正しいものであるかどうかを、内省することがキメ手になるのであった。そうして、正しくないめんが浮彫されたならば、二度と再び、同じことをくりかえさないように、想念と行為のうえで現わしていくことであった。

 ゴーダマは過去をふりかえり、反省することによって、心の曇りを、一つ一つ払いのけていった。

 三十六年間の過去をふりかえり、その想念と行為について、黒白をつけてゆくことは、大変なことであった。黒白をつけるには、中道を根本として第三者の立場で自分を眺めなければならない。身びいきがあっては意味を持たない。これでは反省にならないからだ。それだけに、反省が厳正なものであればあるほど、愚かな自分が浮彫されてくる。人に話すこともできない。

 反省して悪いと自認したとしても、その事実を消すことはできない。要はその事実を、これからの人生の課程において、改めてゆく以外にないのである。また、過去のその善悪について、それに執着を持つと、これからの行動が束縛されてくる。本来の自由性がそこなわれてしまう。とくに悪の行為について、
「悪かった・・・・・・」
と認めたまではいいが、それにとらわれると暗い想念をつくりだしてしまう。この点も中道の心が大事である。過去の全体験は、魂の修行の一過程であるからである。反省の功徳は反省後の中道の実践にかかっている。功徳は心身の調和という姿で現れてくる。

 ゴーダマは三十六年の過去を反省し、開眼する。そうして開眼後の実践によって、開眼の領域とその内容を、いっそう充実したものにしてゆくのである。

http://shoho2.com/index.html

現在の釈迦
高橋信次とともに(引用)


  心の拠りどころ
Date: 2013-07-13 (Sat)
思考の切り替えやブロックの書き換えも良いんだけど、思ったよりも影響がなかったと言う方がいましたが、

そこで自分はカルマの解放について、少しお話をしたいと思います。

潜在意識には、顕在意識と隔てている壁があるのです。

その壁の一部がなくなると、それまで抑圧されていた記憶や感情のエネルギーが顕在意識表面にあがってくるのです。

これらの事を自分は抑圧されていた記憶とエネルギーの解放がなければならないと何回も言っています。

この事を想念体の中にある記憶や感情のエネルギーの解放なくして、心の浄化が進んでいない。

またカルマの解放が進んでいないと思います。

想念体はカルマの素みたいなものですからね。


前にもこういう事を言いました。

思考の切り替えやブロックの書き換えと感情のエネルギーの解放を、二つの両輪をもって運命が変わると言いました。

瞑想とかしていて想念体の蓋が取れたりすると、

深層意識の中に溜めこめられた感情エネルギーが解放されて行きます。、

身体の中に散らばったエネルギーやチャクラに染み込んでいたエネルギーも解放されて行くのです。

カルマの洗い直しと言っている方がいました。

カルマの解消中に、あまりにも無意識のエネルギーが強ければ、また反動もすさまじいのです。

ボウルをバケツの中に押し込んでいて、その押し込んでいたボウルが戻ろうとするエネルギーのように強く反動があるのです。

その過程で保護を目的にして隔離をしていた宗教団体とかありましたが、

こういう状態の時には迷うのです。

心の拠りどころや逃げたい気持ちは理解できますが、こんな時には罠にはまったりしない事です。

神は乗り越えられない試練は与えないと言いますが、このような時にはどうにもならないような境地が現れるかもしれません。

マハリシはこんな事を言っていました。

台所のゴミを゜棄てるのに、その中身が何であるか調べたり分折する必要は少しもない。

彼がしなくてはならないことは、自己を覆い隠しているすべてのものを、

構成要素などというものともどもにぬぐい去ることであると言っています。







  偉大なる存在
Date: 2013-05-24 (Fri)
日蓮聖人は、12歳で親元を離れて近隣で一番大きなお寺だった清澄寺に勉学のために入りました。

16歳の時、正式に僧侶になりますが、その出家の目的は明確で、現在の仏教界に対する疑問解決のためだそうです。


親鸞聖人は年9歳の春、聖人は慈円(じえん)のもとで出家得度(しゅっけとくど)し範宴(はんねん)と名のられ 

以後29歳までの青春まっただ中20年間、比叡の山で仏教の学問・修行に励まれたそうです。


弘法大師空海は 香川県に生まれる。家庭が貧しく、頬がこけるまでにやせており

農民が「空海、なんか食うかい」と話しかけたほどだと伝えられている。

捨て子同然で幼少時より仏門に入ったそうです。     


道元は三歳の時に父親が亡くなり、八歳の時に母親が亡くなった事で、小さい時から孤独の境涯にさらされた。

13才で比叡山に上がられた。14才で出家比叡山で一所懸命修業されたそうです。


高橋信次

ひかり光のてんし天使、すなわ即ちしょにょらい諸如来、しょぼさつ諸菩薩のことなり。

このげんしょうかい現象界は、しんぶつ神仏より、いっさい一切のけんげん権限をひかり光のてんし天使にゆだ委ねしところ処なり。

ひかり光のてんし天使は、じひ慈悲とあい愛のかたま魂りにして、あ彼のよ世、こ此のよ世のしょれい諸霊をみちび導かん。

さら更に、しょ諸てんぜんじん天善神あり。もろもろ諸々のしょれい諸霊をいっさい一切のま魔よりまも守り、ただ正しきしゅじょう衆生をようご擁護せん。」

何んとか菩薩、何んとか如来、或は何んとか大明神なんて言われると、

もうすでに神様だァなんて思うでしょうが、残念な事に彼等は神様ではありません。

若し神だ!なんて名乗ってきたら動物霊です。人間は盲で見えないので解りませんが、

神だ!仏だ!菩薩だ!と言って出て来る連中は絶対に正しいものではありません。


なぜならば、如来や菩薩たちが出て来る時は、絶対に盲の人生を歩んでいる人々に対して、脅迫的な観念は与えません。

安らぎと調和の言葉をもって、心に光を入れて行きます。

だが、日本の神様はよく霊媒を通して威張って出て来ます。

我こそは何んとかのみこと尊なり、信じざる者頭が高い、と殿様のような態度を示します。

そんなものではありません。盲の人生を、自分の可愛いい子供たちが、

この地球上で修行して、酷しい環境の中で苦しんでいる時に、なぜそのように、神は無慈悲な言葉を使うのでしょうか。

愛と慈悲に満ちた言葉で、皆さまの心の安らぎを与えて行くものです。

 それ故に今後、我こそは稲荷大明神なり、我は何々と出て来る連中をよく見て下さい。

まず、その人の家庭、行動等を見る事です。これはおか可笑しい、と思ったらやめる事です、

深入りしない事です。一番重要なのは、本当にそういう人たちであるならば、

心は綺麗で、人を恨む事も無く、自分というものをよく知り、家庭も円満で平和です。

そうゆう事を確かりみてから、正しい目で皆さまは判断しなくてはいけません。

このように、諸天善神というものは、特に稲荷大明神とか、龍王と言われる連中があの世におります。

インドの当時は、ナガー・ラージャンと言っておりました。ナガー・ラージャンと言うのは龍王の事です。

ナガーとは動物ですが、動物といえども神の子、万物の霊長に進化するための過程なのです。

万物の霊長たる人類は、神の子として同じ形を持ちながら、闘争と破壊を繰り返し、動物的本性というものを捨て去っておりません。

闘争的な破壊活動、争い、戦争、このようなものは、万物の霊長に進化する過程の動物のやる行為なのです。

こうゆう事を知ったならば、動物霊たちも矢張り同じように神の子なのです。

ただ彼等は神の子としての本性を知らないために不調和な行為をする。

そうゆう動物霊たちを、仏教で言う菩薩界につれて行くまで、神の子としての神理を教える使命を持った者たち、こういう者たちを龍王といっております。

 稲荷大明神というのは、そのような動物たちの指導者で神理を教える純然たる神の子人間です。

菩薩界まで進化する魂の浄化する過程において、彼等はその心を自分で身を持って体験して来なければならないのです。

しかし菩薩界まで行く過程で、動物を支配する途中で失敗する者が多い。増上慢になってしまうのです。

神界の上段階の連中が、菩薩界に行く途中、例えば力士であれば、

幕内から小結になり、関脇になり、大関になって行く途中、矢張り相撲取りでも増上慢になりますと平幕に落ち込んでしまいます。同じです。

 あの世でも、つい動物たちがチャホャしたり、色々手伝いもしてくれます。

現象界の盲の人間が、商売繁盛を願いこんこん狐々さんを祭ります。

いつ時は感謝もしますが、いつか忘れてしまいます。商売繁盛に協力した動物たちに挨拶もしない。

すると彼等はムクレてしまいます。〃何だ商売が繁盛するように、一生懸命こっちは、してやったのに俺たちの事を忘れやがる〃と

必ず文句をいって来ます。やがて動物霊たちは不調和な環境を支配しはじめます。

家族に現象が出たりして家の中は混乱してまいります。

そこで神と自称する所へ拝みにいくと、〃貴方の家は稲荷大明神に供養が足りないからたた崇っている〃といわれ、

こんどは一生懸命に、ちがった方法で、拝むようになる。その人たちは、欲が所詮深いですから、又やり出すのです。

やればやる程混乱して泥沼の中へ足を突っこんで行く。

そして最後は、死んだ時には動物界におちたり、人にひょうい憑依したり、じばく自縛れい霊になっていきます。

そうゆうように非常に危険なものです。〃さわ触らぬ神にたた祟り無し〃という諺があるように、一つ間違えば宗教も阿片です。

 一方、不動明王とか弁財天という諸天善神もおります。弁財天というのは決して皆さまが金持になるために協力するのではありません。

真の弁財天というのは、中国の四世紀時代に出られた方です。それは財は財でも丸い方の財ではありません。

皆さまの過去世においてある時は王様の体験をし、又天文学を学んだ事もありましょう。

あるいは貧賎の生活の中で人々から白い目で見られ酷しい生活をして来た人もありましょう。

そのような皆さま自身の内在された偉大なる智慧、心の中にあらゆる体験を探り出す、

このようなものを司どり、協力する光の天使を弁財天というのです。

不動明王と言われる方は、善なる人々に近寄ろうとする次元の違った悪魔たち、又悪魔の憑いた人々を、皆さまの周辺から護ってやろうという天使たちなのです。

諸天善神とはそのような使命を持っている人々です。

 
実在界を通して見れば、諸如来、諸菩薩は心の内面を教え、諸天善神と言うのは善なる心の人々を擁護するために協力している光の天使です。

前にもふれたように光の天使が地獄界にまいりますと、地獄界はパァーツと昼間のように明るくなります。

地獄界の者たちは、神が来たあるいは太陽が出て来たとおどろきます。

そういう現象を縁として彼等は自分自身を悟ってゆくのです。

然し彼等はこの地球上において神の子としての使命を忘れ去ったために、その原因が結果となって現われたのですから、

あく迄もこの地球上という場所を縁としなければ彼等自身は悟れないのです。

地獄界に落ちた原因はこの地球上と云う場ですから、その故に皆さま自身は地獄に落ちている人たちを救う力を持っているのです。

修行はこの地上界であるからです。それ故に私たちはこの地球という場所においてこそ、

亡くなった先祖やあるいは地上界を去る時に執着を持って地獄界にいる迷える人たちを、救う事が出来るのです。

然し大事なことは自分自身が神理を悟らず、地獄界のような心で彼等にお経をあげたところで、

かえって皆さん自身が疲れるばかりでなく、心の不調和を呼ぶと同時に苦しみと悲しみを更に撤き散らして行く事になるという事です。

本当に先祖に供養しようと思えば、まず自分自身の心を清らかにして神理を実践し、

そして先祖代々の諸霊に対して模範を示すような生活行為を実践し、神理を教えていった時にこそ、本当に彼等は救われてゆくのです。

 諸天善神は皆さま自身の心のそばにおります。魂の兄弟たちも又皆まんの調和と安らぎのために協力をしております。

それを受け取るのは皆さまの日々の生活行為いかんにあると言う事であります。





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